成就院「文覚上人荒行像」と碌山の「文覚」
2010-10-22


帰国後の荻原守衛は、まったく制作が進まなかったらしい。 夫のある相馬 黒光との密かな愛に懊悩していたのだ。 やすらかな顔をした黒光が、新宿中 村屋に近い守衛のアトリエの炬燵で寝ているスケッチがある。 守衛の思いと 苦悩に気付いていた黒光は、制作意欲を高める一助になればと、成就院の「文 覚上人荒行像」を見ることを勧めたのだった。

 成就院で頂いた『成就院〜紫陽花と縁結びの寺〜』(かまくら春秋社)という 小冊子のコラム「文覚像に秘められたふたつの恋」によれば、こんな事情があ った。 黒光は女学生時代、鎌倉にあった星野天知(「文學界」の主宰者)の文 芸サロンに出入りしていた。 その頃、星野が雑誌「女学生」に「怪しの木像」 と題して書いた「文覚上人荒行像」の話が強く記憶に残っていたのだ。 明治 女学校で教師をしていた星野天知は、学校の夏の合宿で成就院を訪れた際に、 「文覚上人荒行像」を見て、当時、教え子への許されぬ恋情に悩んでいた自分 と文覚上人を重ね合わせたという。

文覚上人は、平安末期から鎌倉時代初期を生きた真言宗の僧侶だが、元は遠 藤盛遠という名の北面の武士だった。 出家した理由は、従兄弟の妻、袈裟御 前に許されぬ恋情を燃やした末、従兄弟と間違えて袈裟御前を殺してしまった ことにあった。 文覚上人は非を悔い、袈裟御前への贖罪のため、壮絶な修行 を重ね、後に滝に打たれる自らの姿を木像に刻んだ。

1908(明治40年)夏、夫ある黒光への許されぬ恋情が頂点に達していた荻 原守衛も、黒光と一緒に、成就院の「文覚上人荒行像」を見た。 「僕は之を 一瞥した其の瞬間の印象を今も尚打ち消す事が出来ぬ」という強い衝撃を受け、 文覚の「煩悩の執着より解脱せんと懊悩している 内心の波乱」を感じた。 そ の後すぐ、ある漁師をモデルに制作にとりかかった。 「文覚」は、その年の 文展に入選し、この作品によって荻原守衛は「日本の近代彫刻のパイオニア」 と呼ばれる。 腕を組み、右の虚空を睨んだ「文覚」は、安曇野の碌山美術館 にある。

[美術]

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