1921(大正10)年10月、Y子は『大阪朝日新聞』に伊藤伝右衛門への「絶 縁状」を発表して、行方をくらます。 その後、伊藤家との離婚交渉、兄の貴 族院議員辞職、幽閉の中で長男・香織を出産、華族籍からの除籍と、龍介と結 婚に漕ぎ着けるまで、約二年がかかる。
子とねむる床のぬくみのこゝろよさそこはかとなき花の香もして
関東大震災後になって、ようやく目白の家での生活が始まるが、龍介は結核 で病床にあり、Y子が家計を支えることとなる。 貧しいながらも、初めて自 らの意志で生活できる喜びをかみしめながら、文筆活動にいそしむ。 1925(大 正14)年には長女蕗苳が生まれる。 1935(昭和10)年には歌誌『ことたま』 を創刊、主宰する。 義父・宮崎滔天の関係もあって中国やインドなどアジア の留学生を助け、龍介の関係で社会的弱者に手をさしのべた。 吉原から脱出 してきた女性を匿い、その自立を助け、龍介や日本労農党の岩内善作、賀川豊 彦、安部磯雄らとともに廃娼運動に関わった。
早稲田大学から学徒出陣した長男香織は、終戦4日前、鹿児島串木野で空爆 によって戦死する。
空襲のさなかに蝶のあそぶ見てしみじみ人のおろかさに泣く
海みれば海の悲しさ山みれば山の寂しさ身のおきどころなき
夜をこめて板戸たゝくは風ばかりおどろかしてよ吾子のかへると
翌1946(昭和21)年5月、NHKラジオで、戦争で子供を亡くした母親にむけ て、世界平和に立ち上がることを呼びかけ、「悲母の会」が結成される。 のち にこの会は「国際悲母の会」となり、世界連邦運動に発展、白蓮は婦人部の中 心となった。
白蓮は1967(昭和42)年2月81歳で、龍介はその4年後の1971(昭和46) 年78歳で亡くなった。
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