ペリー来航150年の久里浜浦賀へ行く・中島三郎助[昔、書いた福沢176]
2019-12-20


陸路だと東海道を下り、川崎宿の次が神奈川宿、江戸からここまでの距離は 7里(約27キロ)、浦賀は神奈川宿からさらにほぼ同じ距離を南下した位置に ある。 当時の人は、急いで歩けば一日に10里以上は行けたが、普通は江戸 から出て、神奈川宿かその先の程ケ谷(保土ケ谷)宿で一泊したという。 と、 いうことは、佐久間象山は海路を船で行ったのだろう。

      福沢を謹慎からひっぱり出す<小人閑居日記 2003.5.27.>

 中島三郎助について、もう一つ。 福沢は二度目のアメリカ行きで、軍艦受 取委員長の小野友五郎にたてついて、帰国後の慶応3(1867)年7月謹慎 を命じられた。 福沢が大量の洋書を買い込むのを見て、小野が幕府でも洋書 を買って帰り、それを売りさばいて公儀のご利益にしたいと、福沢にその買い 入れ方を命じたのに、福沢が「政府が商売をするのか。 政府たるものが儲け 仕事をするというなら、私もその間で思うさまコンミッションを取るがどうか」 と、ねじこんだのを始め、事あるごとに官僚風を吹かせる小野に当ったからだ った。

 福沢が引っ込んでいると、だんだん時勢が切迫してきて、ある日、中島三郎 助がやってきた。 事情を聞き「ソリャアどうもとんだことだ、この忙しい世 の中におまえたちがひっこんでいるということがあるか、すぐ出ろ」「出ろった って、出さぬものを出られないじゃないか」「よろしい、拙者がすぐに出してや る」と言い、その時の老中稲葉美濃守正邦のところへ掛け合いに行ってくれて、 再び出ることになった、と『福翁自伝』にある。


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