compagnie やcompanyを最初に「商社」と訳した人は、わからないそうだ。
やがて「商社」から「会社」へと変って行く。 その画期になったのは、これ
も馬場宏二さんによるが、渋沢栄一だろうという。 明治元・1868年10月、
大蔵省に出仕した渋沢は改正掛のリーダーとして新国家の制度作りに携わる。
渋沢(というより吉田二郎←前掲『福沢手帖』110号)がしかるべき調査によ
って著した『立会(りゅうかい)略則』(明治4・1871年9月)では、「通商会
社」として株式会社の組織について、「為替会社」として銀行の組織と業務につ
いての解説がなされる。 府県レベルの役人が実際の事務に使うために同月「大
蔵省事務章程」、「県治事務章程」(明治4・1871年11月)が作られる。 前者
には「第十八条 通商並勧農ノ事」に「附諸会社ノ事」があり、後者には「第
二十二条 諸会社ヲ許ス事」があった。 公用語として「会社」と決められた
わけで、これが「会社」が広まった有力な原因になったのだろうという。
幕末の段階では、外国と競争することもあって営利企業といえば「貿易」だ
ったから「商社」がぴったりだった。 それが明治になって、貿易・商業に限
定しない広い意味に使うために「会社」になっていったのではないか、という。
渋沢栄一と聞いて、この時、私が思ったのは、渋沢が静岡藩でやった合本組
織(株式会社)「商法会所」のことだった。 渋沢は徳川昭武についてフランス
に行っている内に幕府が瓦解、徳川家は七十万石の静岡藩になってしまった。
渋沢は大蔵省に出仕する前、その静岡藩で、フランスで学んできた株式会社制
度を「合本組織」と呼んで実験し、一応の成功をおさめたのであった。 高村
直助さんはそれを当然ご存知だったろうが、言及はなかった。
セコメントをする