萩原朔太郎、最終学歴は「慶應義塾大学予科中退」
2022-09-30


 「萩原朔太郎」をウィキペディアで見たら、最終学歴が「慶應義塾大学予科中退」となっていた。 ぜんぜん知らなかった。 さっそく、『三田の文人』(丸善・1990(平成2年)年・慶應義塾大学文学部開設百年記念「三田の文人展」実行委員会編)を取り出した。 巻末に「三田の主要文人リスト」がある。 「三田の文人展」で展示された文人を中心に編んだもの、とある。 だが、「は」行には、馬場孤蝶(勝弥)、馬場辰猪、原月舟、原民喜の4人しかない。 萩原朔太郎は、なかった。 角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIの解説でも、萩原朔太郎は、「熊本、岡山高等学校中退」となっている。

 ウィキペディアによると、萩原朔太郎は、明治19(1886)年11月1日、群馬県東群馬郡北曲輪町(のちの前橋市北曲輪町(現・千代田町1丁目))に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれ、朔日(ついたち)生まれの長男なので朔太郎と名付けられた。 明治26(1893)年に群馬県師範学校附属小学校に入学、同校を卒業して明治33(1900)年に旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学した。 この頃、従兄弟の萩原栄次に短歌のことを教わり、校友会誌や回覧雑誌に短歌を発表する。 明治36(1903)年に与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首が掲載され、石川啄木らとともに「新詩社」の同人となる。 学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた、というので落第した。

 浪人して、明治40(1907)年9月熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学する。 しかし、翌年7月落第し、明治41(1908)年9月、岡山の第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。 試験を受けないため、翌年7月落第する。 明治43(1910)年、六高に籍を残しつつ、慶應義塾大学予科了組に入学するも直後に退学。 同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し、5月、六高を退学する。 翌年、慶大予科に再入学する。 比留間賢八についてマンドリンを習い音楽会やオペラを楽しむが、精神的苦悩に悩まされ、同年11月、慶大予科を中途退学。 慶大への入退学が重なっているのは奇妙だが、これは旧制第六(?)高等学校の教授が朔太郎の父・密蔵に手紙を寄せ、「朔太郎の学業に将来の望みなし」と諭告したことに関連する、とウィキペディアにある。

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