加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』(TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)という本のはじめに、加藤さんの「四つの自由化−「日本語新時代」をむかえて」という文章がある。
現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。
(1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完全さ」の「程度」のちがいにすぎない。
(2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。
(3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よみやすく、そしてかきやすいものになる。
(4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。 「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。
加藤秀俊さんの『常識人の作法』(講談社)を読んで、1930(昭和5)年生れの、歯に衣着せぬ物言いにびっくりした。 その頃、2011年8月29日の産経新聞「正論」に、加藤さんの「嗚呼、落ちた日本人の造語力よ」が出た。 「嗚呼」は、言うまでもないが「ああ」と読む。 原発事故で政府高官などが、「モニタリング・ポスト」を始め「ベント」「トレンチ」「ストレス・テスト」を連発した。 各地に配置された「観測装置」、「排気」か「換気」、「暗渠」、「耐久試験」といえばいいではないか、バカもいいかげんにしなさい、というのである。 夏目漱石がむかし「むやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男がごろごろ」していた時代があった、と回顧したのは大正3年。 おそらく漱石の念頭にあったのは、坪内逍遥が『当世書生気質』で戯画化した明治の学生たちのことだったろう、という。 加藤さんは、政治家のカタカナ好きは「当世書生気質」なのだろうかとしつつ、それだけではあるまい、と言う。 エライさんたちは、記者会見する担当省庁や電力会社の人たちとおなじく、原発関係者の仲間うちだけで通用する業界用語を借用しているだけなのではないか。 やくざ社会で、たとえば駅を「ハコバ」、指を「エンコ」、寿司を「ヤスケ」、しごとを「ゴト」などというように、ご同業仲間だけに通じる隠語として…。 加藤さんは、その隠語を政治家や官僚がそのまま借用して、われら民衆に解説なさるのはまことに迷惑である。 かれらは「業界」を批判しているようで、いつのまにやら、その仲間にひきこまれてしまったのである、と言う。
最後の部分は、わが意を得たので、そっくり引用する。 「学者先生のなかには、どうも日本語では表現できなくて、などとおっしゃるかたがおられるが、あれは知ったかぶりの大ウソである。たいていのことは日本語で表現できるのである。福澤諭吉、西周など明治の先人たちは「哲学」「経済」「主義」「社会」その他もろもろの造語をもふくめて外国語を日本語にするための努力をかさねた。なにが「ストレス・テスト」なものか。わたしの心は憤怒の「ストレス」をうけたのであった。」
セコメントをする