2024-11-09
寺崎修さん(武蔵野大学学長)は、福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度について検討した。 天皇制…明治15年の『帝室論』は、新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。 議会…福沢は過激な自由民権運動には同調せず、まずは地方民会の充実と地方分権の確立を唱えていたが、明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、もっぱら国会を開けという議論を展開する。 内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』) 地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」−外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」−道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。
こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、象徴天皇制と同じ『帝室論』の考え方とともに、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。(「福沢諭吉の近代化構想」その一・その二<小人閑居日記 2008.6.6.−7.>)
官尊民卑、男尊女卑も、福沢が一貫して攻撃した対象だった。 官尊民卑については、その教育面のそれを寺崎修さんが、2011年の福澤先生誕生記念会で講演している。 慶應義塾に対する文部省の圧迫政策は、明治14年の政変以前、すでに明治12年頃から始まっており、政変後に激しくなったと言える。 福沢は私立学校への圧迫がだんだんひどくなっていることを指摘し、官立学校は全廃しても差し支えない、全廃できない場合は私学並みの授業料を取れという官立学校の“民営化”を提案している。(「福澤諭吉の提言」(2)官尊民卑の教育政策<小人閑居日記 2011.1.15.>)
2009年2月7日、東京国立博物館「未来をひらく 福澤諭吉展」の記念講演会で米山光儀(みつのり)福澤研究センター所長は「同床異夢の教育―福澤諭吉と近代日本の教育」と題し、福沢の構想が、明治政府の近代学校制度によって実現したかどうかを検討し、福沢の教育政策批判を取り上げた。 福沢は明治12年の『福澤文集二編』「小学教育の事」で、8年制の小学校など実際に学ぶ人はいない、せいぜい1年、国民の経済力に対応した教育制度をつくるべきだと、漸進主義の考えを述べた。 明治14年の政変以後、教育政策が知育から徳育へと転換したのに対しては、福沢は明治15年の『徳育如何』で、その儒教主義を批判した。 (教育政策についての福沢の批判<小人閑居日記 2009.2.12.>)
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