最初の入牢の裏の理由とも言われていることだが、1698(元禄11)年の、三宅島遠島の理由についても、諸説ある。 「為政者の風刺」…時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、朝湖が風刺作品にしたから。 代表作《朝妻舟図》が、吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの。 「禁句の罪」…「馬がもの言う(予言する)」という歌を広め、綱吉の「生類憐みの令」を批判したから。 「そそのかしの罪」…綱吉の生母・桂昌院の甥である本庄貴俊らを吉原に誘い、遊女を身請けさせた。
その他、『当世百人一首』で、綱吉の側室・お伝の方を遊女に見立てた舟遊び風景を描いて、揶揄したとするもの。 当時大名や金持の間で、石灯籠を集めることが流行った際、それを集めて儲けようとした、などともいう。
池田芙美さんの論考は、また明日。
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