水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションと福沢諭吉
2025-04-10


このところ、ときたま人形町界隈に出没している。 昔、会社の帰りに立ち寄ることがあったので、多少は土地勘があった。 TBS落語研究会が、三宅坂の国立劇場小劇場を建て替えで使えなくなり、2023年11月から2024年5月まで、水天宮に近い日本橋劇場(中央区立日本橋公会堂)を使っていたので、毎月人形町へ行っていたからである。 その日本橋劇場も建て替えで、落語研究会はその後、よみうり大手町ホールでやっている。

 先日は、前から行ってみたいと思っていて、なかなか行けなかったミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ、「南桂子展 小さな雲」(3月30日まで)を観に行った。 浜口陽三が精密な銅版画家で、ヤマサ醤油の創業家の出身であることは、知っていた。 創業者の浜口梧陵(儀兵衛)と福沢諭吉の関係があったからだ。 浜口陽三は、十代目浜口儀兵衛の浜口梧洞の三男として、1909(明治42)年4月5日、和歌山県有田郡広村(現、有田郡広川町)に生れ、幼少時に一家で千葉県銚子市に転居したという。

 「南桂子展 小さな雲」を後回しにして、南海トラフ巨大地震とも関連するので、浜口梧陵(儀兵衛)と大津波、和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係について、書いたものをまず引いておきたい。

   大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
                 大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。


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