2025-04-10
しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。
『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。
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