高知新聞社入社、雑誌『月刊高知』編集部で小松暢に会う
2025-06-19


 戦争が終わってしばらくのあいだ、嵩の心はむなしさでいっぱいだった。 嵩の心を深く傷つけていたのは、信じてきた「正義」が突然ひっくり返ったことだった。 正義のためなら死んでもしかたがないと思っていた自分は、いったい何だったのだろう。 戦友や弟は、何のために死んだのだろう。 考え続けた嵩は、ひとつの考えにたどりついた。 それは「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」というものだった。

 もし、ひっくり返らない正義がこの世にあるとすれば、それは、おなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか――嵩はそう思うようになった。 この思いは嵩の中で生き続け、長い年月をへて、誰もが知るヒーローを生むことになる。

 戦友に声をかけられ、進駐軍の廃品を回収する仕事を手伝った。 アメリカの雑誌は、上質な紙にカラーで印刷され、写真やイラストは鮮やかで、皮肉のきいた漫画も載っていた。 何でもいいから文化的な仕事をしたいと思うようになった嵩は、高知新聞社で記者を募集していたので、試験を受け、昭和21(1946)年6月に入社した。 配属されたのは社会部だったが、一か月で創刊する雑誌『月刊高知』の編集部に異動した。 編集長は高知新聞の編集局次長だった青山茂、編集部員は嵩より七か月早く入社した品原淳次郎と、二か月早く入社した小松暢(のぶ)だった。 小松暢は、大正7(1918)年生まれで嵩の一つ上だが、嵩は早生まれなので、学年は同じである。 高知新聞の戦後の女性記者第一号として4月に入社していた。 年齢よりずっと若く見え、色白で一見かよわそうだが、女学校時代は「韋駄天おのぶ」と異名をとった短距離ランナーで、高知でハチキンと呼ばれる元気いっぱいの明るい女性だった。

 取材や原稿依頼からレイアウト、校正、広告取りまで、このメンバーですべてやった。 目の回るような忙しさの中、昭和21(1946)年7月25日、『月刊高知』は創刊された。 新聞本体にはまだ文化記事が少なかった時代、ルポやインタビュー、座談会、小説、エッセイ、詩歌、漫画と、盛りだくさんの総合雑誌は画期的だった。 三千部で創刊した雑誌は、やがて一万二千部に達した。 部員全員が雑誌編集ははじめてで、試行錯誤をしながら型にはまらない新しい雑誌をめざして奮闘する日々。 嵩は、ふたたび青春がもどってきたような気がした。

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