四代目枡屋源左衛門が弟の幸之助に家督を譲り、本宅にほど近い帯屋町の別墅を隠居所に定め、名も茂右衛門(もえもん)と改め、描絵三昧の日々を送って、四年になった。 大典和尚の後押しもあって、近年、茂右衛門こと伊藤若冲なる画人の名は、京の内外に広まりつつある。 池大雅、通名・池野秋平(しゅうへい)は文人画を得意とし、書家としても名高い、名だたる知僧や学者から絶大な人気を博する絵師である。 だが、生来のきさくな気性ゆえか、大典和尚に引き合わされたのをきっかけに、月に一、二度は、茂右衛門の隠居所にやって来る。 お志乃と通いの小女以外、ほとんど人と関わらぬ茂右衛門にとって、いわば唯一、朋友と呼び得る人物であった。
今日は、「若冲はん、今、急ぎの仕事はおありですか、実はこれからちょっと、わたくしにご同行いただきたいんどすわ」と、外出嫌いの茂右衛門をひっぱり出した。 高倉通りをまっすぐに北上し、二条通を過ぎ、九条家の屋敷を望む界隈で、道を一本東に変えた。 行った先は、お内裏、元左少弁裏松光世が幽閉された蟄居先だった。 大雅は「いま京で評判の伊藤若冲はんをお連れしました。少弁さまがこないだ、会うてみたいと仰られてましたさかい」 「前から申しておるが、少弁さまと呼ぶのは止めい、こなた(自分)はもはやただの隠居じゃ。まあ、とにかく近う参れ」
大納言徳大寺公城(きんむら)を筆頭とする公家二十名に蟄居が命ぜられたのは、昨年の七月のことであった。 当今遐仁(とうぎんとおひと、桃園天皇)の近習であり、垂加流神道の学者である竹内式部の下で『日本書紀』や四書五経を学んでいた彼らは、これより前、尊王を旨とする師の学説に傾倒。 幕府が朝廷を管理する現状に不満を抱き、主上に竹内学説を進講するばかりか、軍学兵法の学習、果ては剣術の稽古まで内々に行っていた。 このようなことが幕府の耳に入っては、どんな疑いをかけられるか知れたものではない。 事態を憂えた関白の近衛内前(うちさき)は、竹内の追放を断行。 門下の公卿を悉く免官、謹慎に処し、一切の禍根を断ったのである。 後に「宝暦事件」と呼ばれる騒動だ。
裏松光世は大雅と茂右衛門に、一本の花鳥図の掛け軸を見せた。 背に氷を差しこまれるにも似た衝撃が、茂右衛門の全身を貫いた。 「これは……若冲はんの鴛鴦図どすか」と、大雅。 なるほど絵の構図は、茂右衛門がたびたび描く雪中鴛鴦図に瓜二つ。 筆運びも酷似し、画面の左中央には彼が数年前から愛用する「若冲居士」印が捺されている。 しかし……。 「ち、違います。これはわしの絵やありまへん」 茂右衛門は、光世の御前であることも忘れて叫んだ。
一幅の彩色画を描くにも、茂右衛門は一壺五両、十両という高価な顔料を惜しげなく用いる。 だからこそ完成した作は、万人が眼を見張る鮮やかな彩色画となるのだが、そんな顔料は並みの町絵描きがおいそれと手を出せるものではない。 そして目の前の鴛鴦図は全体に色調が暗く、「若冲」独特の溢れるばかりの鮮やかさに欠けていた。
裏松光世は、「壺中屋の主によれば、これは店に長年出入りする偽物描きの弟子の作。近年めきめき腕を上げてきたのはよいが、どれだけ文句を言うても若冲の作を好んで描く変わり者だそうな」「――のう、若冲。そもじはこの絵師に、何か恨みを買うておるのではないか」。 その瞬間、冷え切っていた茂右衛門の背にかっと熱いものが走った。 こちらを凝視する焔(ほのお)の如き眼差しが、ふたたび脳裏によみがえった。 「まさか……」 いや、間違いない。弁蔵だ。ここまで自分の絵に迫ろうとする者が、他にいるはずがない。
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