田中優子さんの「蔦屋重三郎は何を仕掛けたか」 ― 2025/04/05 06:55
このところ蔦屋重三郎について、いろいろ書くにあたって、田中優子さんが2010年にサントリー美術館で開催された「歌麿・写楽の仕掛人 その名は 蔦屋重三郎」展の図録に書いた「蔦屋重三郎は何を仕掛けたか」を、たびたび参照してきた。 それを総括する意味で、田中優子さんが箇条書きにした「蔦屋重三郎は何を仕掛けたか」を紹介しておきたい。
まえがきは、「今日まで継続している日本の文化には、ひとつの共通点がある。それは、誰かが社会全体のなかで明確な「位置づけ」をおこない、それが継承されて来たということだ。歌舞伎も相撲も落語も能も茶の湯もそのような経過をたどった。能と茶の湯は江戸時代に武家の基本的な教養となり、社会の中に必須のものと位置づけられた。歌舞伎と相撲と落語は、明治以降、近代社会のなかで新たに権威づけられた。相撲が国技となったのは、その表れである。」
「蔦屋重三郎は、浮世絵を含めた江戸の印刷・出版物を、日本社会の必要不可欠な存在に押し上げたのではないか、と私は考えている。その結果、江戸文化はヨーロッパに大きな影響を与え、戦後の日本において、重要な日本文化として評価が定着した。具体的に言えば、蔦屋は以下のようなことをおこない、そのための数々の仕掛けを作ったのである。」
「1. 吉原の年中行事を核に、吉原を「文化の別天地・発信地」とした。
「2. 本を、本であるとともに、江戸の出版物と吉原と江戸文化の宣伝媒体とした。
「3. 連の中に入って人と人をつなげ、連を出版に結びつけ、その結果、後世の日本人に「連」の存在を知らしめた。
「4. 横のつながり、縦(世代間)のつながりの両方において、その間に立つ「橋渡しの人」を重要視し、そのような人々と連携した。
「5. 江戸文化を担うスターを生み出すことで、日本の中の「江戸っ子」と「江戸文化」に確かな位置を与えた。
「6. 作品の中に「キャラクター」(個性を持った独特の存在)を立ち上げる仕掛けを作った。」
四方赤良・大田南畝の「寛政の改革」後 ― 2025/04/04 07:15
喜多川歌麿の「大首絵」が出現した寛政4(1792)年、四方赤良として、狂歌師あるいは洒落本の当代随一の作家として、既に名を成した有名人だった大田南畝は、46歳で幕府の行なった学問吟味の試験を受け、御目見え以下の武士の部で、一番で合格した(なだいなださんは、寛政6(1794)年)。 田沼意次の腹心で断罪された土山宗次郎と親しく、<世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶというてよるもねられず>の作者と目された筆禍事件の後、狂歌と絶縁した彼は、若いものと一緒に机を並べて学問吟味の試験を、受けたのか、受けさせられたのか、役人に転身して生活をたてようとしたのであろう。 非常に屈辱的だったろうが、首席合格で銀十枚のほうびを頂戴し、面目を保って、見事にきりぬけた。
だが当時、出世のために必要なのは、学歴でなく、家柄だった。 彼に与えられた仕事は、幕府の古い帳簿や帳面などの整理であった。 <五月雨の日も竹橋の反故しらべ けふもふるちやうあすもふるちやう>と、詠んでいる。 竹橋には勘定所(大蔵省)の書庫があり、明けても暮れても、彼は古い文書の整理に追われていたのである。 天才をなんという仕事に使ったものだろう。 それでも、彼は古い帳面を見て、面白いものがあれば、すべてきちんと書き留めておいたので、それが、現代の経済史の研究者や歴史家にとっては、実に有用な資料となっているそうだ。 七十俵五人扶持の家禄だった彼は、この仕事で三十俵分の給料値上げを得た。
大田直次郎が学問吟味を受ける前に、彼が個人教授をしていた若い弟子たちも、学問吟味でよい成績で合格した。 だが、どういうわけか、彼は、官途の出世では、自分の弟子たちに追い越されてしまうのである。 最下級の武士である彼が、大名や旗本と交友関係にあったことが、マイナスに作用したのであった。 と、なだいなださんは『江戸狂歌』に、書いている。
「ウイキペディア」によると、学問吟味合格の2年後の寛政8(1796)年、支配勘定に任用され、寛政12(1800)年御勘定所諸帳面取調御用、享和元(1801)年大坂銅座に一年間赴任、この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。 文化元(1804)年長崎奉行所赴任、文化5(1808)年、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く(4月1日に書いた、十返舎一九に語ったノミの逸話はこの折のことだろう)。 文化9(1812)年、息子の定吉が心気を患って失職したため、隠居を諦め働き続ける。
文政6(1823)年、登城の道での転倒が元で死去、75歳。 辞世の歌は、<今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん>と伝わる。
松平定信「寛政の改革」、取締りから生まれた蔦重の工夫 ― 2025/04/03 06:53
大田南畝の四方赤良は、天明3(1783)年朱楽菅江と共に『万載狂歌集』を編む。 この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになる。 天明6(1786)年ころには、吉原松葉屋の遊女三保崎を身請けし妾として自宅の離れに住まわせるなどしていたという。
しかし天明7(1787)年、松平定信によって「寛政の改革」が始まった。 田沼政治の重商主義の否定と、緊縮財政、風紀取締りにより幕府財政の安定化が目指された。 田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。
天明8(1788)年、朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通』が松平定信のとがめを受け、朋誠堂喜三二の秋田藩士平沢常富は、藩から止筆を命じられる。 次の年、寛政元(1789)年に入ると、山東京伝が画工北尾政演として加わった『黒白水鏡』で罰せられ、恋川春町の駿河小島藩士倉橋格は黄表紙『鸚鵡返文武二道』で定信に呼び出されて死去、主家に累が及ぶのを恐れて自殺したとも考えられている。 そして寛政3(1791)年、蔦屋重三郎は『娼妓絹麗』『錦之裏』『仕懸文庫』の三冊の洒落本で身上半減、作者の山東京伝は手鎖五十日の刑を命じられた。 華々しい活躍をしている者に対する「みせしめ」であったろう。
ところで、喜多川歌麿の「大首絵」が出現するのは、蔦屋重三郎身上半減の翌年、寛政4(1792)年のことである。 蔦重は、必ず売れる細見、往来物(手習い所用の教科書)、富本の稽古本などを刊行する手堅い商売人であったが、その寛政改革以降はその手堅さだけでは足りずに、書物問屋株を取得することで漢籍、和学書も刊行するようになっていった。 伊勢の本居宣長にまで会いに行っている。 黄表紙も洒落本も浮世絵も、「商品」として工夫され、深められたのである。 寛政6(1794)年5月から10か月の間に制作された東洲斎写楽の「大首絵」も同様に、身上半減後の蔦屋を継続するために生み出された工夫だった。 贅沢をとがめられてもなお、雲母刷りの大首絵という、華やかで贅沢なインパクトの強い商品を生み出した重三郎は、最後の最後まで江戸文化の格を下げることなく、堕することもなく、江戸文化を企画し続けたのである、と田中優子さんは「蔦屋重三郎は何を仕掛けたのか」(2010年サントリー美術館「歌麿・写楽の仕掛人 その名は 蔦屋重三郎」展の図録)を結んでいる。
大田南畝、狂歌会を開き、狂歌ブームを起こす ― 2025/04/02 07:06
大田南畝は、寛延2(1749)年、江戸の牛込中御徒町(現在の新宿区中町)で、御徒の大田正智の嫡男として生まれた。 名は覃(ふかし)、字は子耕、南畝は号。 通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。 狂名、四方赤良(よものあから)。 別号、蜀山人。
下級武士の貧しい暮らしで、なだいなださんによると、七十俵五人扶持、内職でもしなければ暮らしていけない、最下級の給与だった。 しかし、幼少より学問や文筆に秀でたため、15歳で江戸六歌仙の一人、内山賀邸に入門し、札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩を学んだ。 朱楽菅江、平秩東作、唐衣橘洲は同門で、書き溜めた狂歌が東作に見出され、明和4(1767)年狂歌集『寝惚先生文集』として刊行、評判となる。 明和6(1769)年頃から四方赤良と号し、狂歌会を開催「山手連(四方側)」と称し活動し始める。 これが江戸で大流行となる「天明狂歌」のきっかけを作る。 四方赤良が狂歌会を開き始めてから十年たつかたたないかの頃だった、四方赤良が『徳和歌後万載集』の作品を募集した時、応募作品は車五台分、一千箱に一杯になるほどだったという。
ちょっと、このあたりの年号と期間を整理しておく。 寛延1748~1751(3年間)、宝暦1751~1764(13年間)、明和1764~1772(8年間)、安永1772~1781(9年間)、天明1781~1789(8年間)、寛政1789~1801(12年間)、享和1801~1804(3年間)。
田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握ったのは宝暦(1751~1764)年間から、明和、安永、天明(1781~1789)年間にかけての期間だった。 田沼時代といわれるこの時期、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いた時代だった。 天明の狂歌の運動は、人気作家を生み出した。 人気作家は、また運動を盛り上げた。
四方赤良は、安永9(1780)年、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として四方屋本太郎の名で『嘘言八百万八伝』を出版した。 山東京伝などは、この頃に四方赤良が出会って見出した才能だとも言われている。
平賀源内を戯作にみちびいた狂歌連 ― 2025/04/01 07:06
平賀源内『火浣布略説』巻末の「嗣出書目」(近刊予定書)広告に、『物類品隲』の「嗣出書目」にあった『物類品隲後編』がなかっただけでなく、そこにあげられた「嗣出書目」のどれ一つとして実現されないで終わってしまう。 それは源内が、戯作者風来山人として忽然として出現するからだ。 『物類品隲』の刊行からわずか4か月後、同じ1763(宝暦13)年11月、源内は江戸神田白壁町岡本利(理)兵衛方から一挙に二つの戯作小説を出版した。 天竺浪人の戯号による自序をもつ『根南志具佐』五巻五冊と、同じく紙鳶(しえん)堂風来山人・一名天竺浪人の自序をもつ『風流志道軒伝』五巻五冊とであった。 源内の、この神出鬼没ぶりを、芳賀徹さんは、「いまで言えば、昨日までの農学部助教授が今日井上ひさしとなって数冊の小説をひっさげて登場したようなものでもあろうか」と、譬えている。
天下いよいよ泰平、文化はいよいよ甘く熟していく時代に、知識人たちの間にもゆとりと寛容と好奇心が生れつつあった。 江戸に群れはじめていた、物産家仲間とは少しばかりずれる別なインテリ逸民のグループが、この宝暦末年のころまでに源内のまわりに出来上がっていたようである。 そしてもともと文学好きの源内を、戯作という文芸の道に誘い込み、たちまちこの方面での華麗なパイオニアたらしめる、きっかけとなった。
『風流志道軒伝』の叙「独鈷山人」は南条山人川名林助(りんすけ)、跋に「滑稽堂」の印のあるのは平秩東作(へづつとうさく)のことだと、大田南畝旧蔵の同書に註記されていることを森銑三氏が三村竹清の『本の話』で知ったという。 大田南畝(四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん))は、戯作者平賀源内の門人で、平秩東作のもっとも親密な若い友人だった。 「独鈷山人」川名林助は、享保17(1733)年江戸の内藤新宿、享保11年生れで6歳年長の平秩東作と、同じ場所に生れた。 享保13年生れの源内より4歳年少になるが、みな同世代と見なしてよいだろう。 平秩東作の父は、尾張の出で尾州家の一門の小役人を精勤した後、内藤新宿の馬宿稲毛屋の株を買い、同業を営んでいた。 東作は父の没後、商売を変えて煙草屋を営み、商人ながら儒学を学び、牛込加賀屋敷の内山賀邸のもとに出入りして和歌を修め、狂歌も作った。 その狂歌趣味から、同じ賀邸門に入ってきた23歳年下の才子大田南畝と親交を結ぶようになり、朱楽菅江(あけらかんこう)、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)などの同門の同志も加わる。 その狂歌・狂文・狂詩の仲間には、本木網(もとのもくあみ)・智恵内子(ちえのないし)のような風呂屋の主人夫婦も常連だった。
なだいなださんの『江戸狂歌』から、狂歌をいくつかみてみたい。 3月2日の「出版が商売として成り立つようになる江戸時代」では、四方赤良・蜀山人、つまり大田南畝が藤原俊成の歌のパロディーで詠んだ<ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里>を引いていた。 平秩東作が蜀山人、大田南畝を詠んだ歌がある、<おうた子を声にてよめばだいたこよ いづれにしてもなつかしき人>。 大田姓を負うた子に、大田は「だいた」とも読める。 父親ぐらいの年の東作が蜀山人と初めて会った頃、あんた初々しかったねえ、若かったねえ、抱いてやりたいような、かわいい坊やだったよ、というのだ。
蜀山人が『東海道中膝栗毛』の十返舎一九に語ったという逸話がある。 蜀山人がある日、多摩の河原の治水小屋で、<朝もよし昼もなほよし晩もよし その合ひ合ひにチョイチョイとよし>と、自作の狂歌を口ずさみながら酒をチビリチビリ飲んでいた。 すると、のみが一匹ピョンと盃に飛び込んだ。 そこで、<盃に飛び込むのみものみ仲間 酒のみなれば殺されもせず>と詠んだ。 ところが、盃の中ののみの奴、生意気な野郎で、<飲みに来たおれをひねりて殺すなよ のみ逃げはせぬ晩に来てさす>と、こしゃくな口のききようだ。 蜀山人は怒って、盃から奴を引っ張り出して、敷居の上でひねりつぶそうとした。 すると、のみはつぶされながらも歌よみの意地は忘れぬとみえて、ぜひ辞世の歌を残させてくれというので、もっともな願いだから、かなえてやった。 <口ゆゑに引き出されてひねられて 敷居まくらにのみつぶれけり>。
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