山辺丈夫・大阪紡績の成功
2006-06-30


 山辺丈夫は帰国後、紡績工場の建設に着手する。 渋沢側の計画に、大阪の 藤田伝三郎や松本重太郎(2003.3.30.と4.11.の「日記」に書いた)を中心にし た大阪商人(旧、綿業関係商人を含む)の紡績会社起業計画が合体し、東京資 本と大阪資本を合わせた28万円の大阪紡績会社構想に発展する。 藤田伝三 郎と松本重太郎は、今でいう新興ベンチャー企業家で、ものすごく儲けた人物 だった。 山辺は当初、水力利用を検討したが、蒸気力利用に方向転換し、松 本や藤田の奔走で大阪西成郡三軒家村を大阪府から貸し下げられる。 三軒家 はかつて罪人が送られる土地だったが、海に近く(石炭や綿花の搬入に便利)、 労働力供給源に近い、広い工場用地だった。 1883(明治16)年3月、大阪 紡績の創立総会があり、藤田伝三郎は頭取、松本重太郎と熊谷辰太郎が取締役、 渋沢栄一が相談役に就任、山辺丈夫は工務支配人として、技術面・生産面での 実質経営者となる。

 1883年7月に操業を開始した大阪紡績は、当初から大きな利益を生み出し、 大成功した。 成功の要因は、(1)大規模生産のメリット。蒸気力利用では、 シャフト一本にベルトで機械がつながるため、たくさんついているほうが有利。  (2)労働者の二交代制、24時間操業で、資本費を節約、高価な輸入機械を使 うデメリットを克服。 (3)従来の綿業地に立地せず、港に近かったため、 国産綿花から中国綿、インド綿へ切り替えた。 (4)製品戦略は、在来綿織 物の原糸となる太糸(着物に使う)に集中し、イギリス、インドの細糸との競 争を回避した。 (5)大阪の立地条件。綿業の生産、流通の本場で、商人の 蓄積があった。 (6)運転資金は、渋沢の第一国立銀行、松本重太郎の第百 三十国立銀行のバックで、潤沢だった。

 山辺丈夫ならではの新機軸もいろいろあった。 山辺はイギリスの紡績技術 書の翻訳をして、部下の技師用のマニュアルをつくった。 今日使われている 紡績専門用語には山辺訳のものが多い。 ランカシャー信仰ともいうべき、3 階建てないし4階建ての工場、現場重視、現場の職工を大切にして、部下技術 者を自前で育成した。 兼営織布業への進出。 イギリスのミュール紡織機か ら、不熟練工でも扱うことのできるアメリカのリング紡織機への切り替え。 遠 隔地募集と寄宿舎。 寄宿舎での福利厚生。 中国、朝鮮への輸出。 紡績合 同、近江商人の金巾製織、名古屋系の三重紡績との合併で、東洋紡績へ(1914 (大正3)年)と発展する。

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