鴎外の最初の妻、その華麗なる姻戚
2010-07-02


 禅林寺の墓地を歩きながら同行のWさんと雑談、鴎外の最初の妻、登志子の 話になる。 私はその登志子の父親が、福沢が咸臨丸でアメリカに行った時、 同行していたと記憶していた。 帰宅してから、森まゆみさんの『鴎外の坂』 で確認する。 長男於莵を産み、一年ほどで離別した登志子の父は幕臣、深川 の御徒士の出で赤松大三郎則良、長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸渡航の時は19 歳、少年士官として参加している。 のちに西周、榎本武揚、林研海(のちの 陸軍軍医総監林紀(つな))、津田真一郎(真道)と一緒にオランダへ留学し、 海軍の知識と造船技術を学び、後年海軍中将になった。

幕末の混乱でオランダから急遽帰国したが、幕府は瓦解、到着したのは上野 戦争の二日後であった。 帰国後、赤松は林紀の妹貞を妻とし、榎本武揚も林 紀の妹多津を妻とした。 西周は林の弟紳六郎を養子とし、林、榎本、赤松、 西は深い姻戚関係を結ぶ。 実は林紀の父は林洞海で、母つるは佐倉順天堂の 佐藤泰然の娘だから、尚中(しょうちゅう・養子…東京下谷→湯島の順天堂病 院創始者)、順(良順…陸軍軍医総監)、董(ただす…林洞海の養子、外務大臣) は、母の兄弟である。 西周は森家と同じ津和野の藩医の子で、森家と親戚筋 に当る。 維新後、いったん慶喜に従って静岡に赴き、沼津兵学校の校長を務 めたことは、昨年の一日史蹟見学会で見てきた。 新政府の要職をつとめなが ら『万国公法』を訳し「明六社」を興した開明的知識人である。 森家が上京 したのも西のすすめで、鴎外と登志子の結婚に際しては、西周が仲人をつとめ た。 中村楼での披露宴には、林紀や榎本武揚も姻戚として出席したという。

一年ほどでの離別について、森まゆみさんは、『鴎外の坂』に鴎外自身が書い たものをいくつか引いている。 その一つ『智恵袋』(明治31年)「つまさだ め」の項。 「政治上財産上の都合、恩義、脅迫、思ふに副(そ)はれぬより の焼け、手当(てあたり)放題、出来心、劣情等」で妻を選んではならない、 会ってよく心を知ってからがよいが、ここに至っても「世間の噂、媒口(なか うどぐち)、乃至誠あれども慮(おもんばかり)足らず栄誉を重んじ性情を軽ず る老父母の勧説は、猶つまさだめの主たる動因とならんとするなり」

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