つぎに、(2)明治17(1884)年6月の熱海旅行を、『福澤諭吉書簡集』第四 巻で探す。 6月19日付福沢一太郎・福沢捨次郎宛書簡、大意【熱海旅行のこ となど近況を伝える】があった。 長男・次男は、アメリカ留学中だった。 福 沢は前年の7月頃「レウマチス」で少々難渋し、今年も同じ時節になってきた ので、熱海温泉へ母(妻、錦)を伴って行く事にしたと伝えている。 「十七 日朝熱海相模や江着、養生致居候。二、三週ニテ帰宅之積なり。」 追伸にも、 「尚以、相模やも相替義無之、老主人ハ疾ク死去、今ハ二代目要作之世なり。 倅弁之助ハ慶應義塾ニ在り。両人之事も相模屋ニテよく存し居り、頻りニ噂致 居候。」とある。 旅館の名前は、相模屋だった。 一太郎と捨次郎が、幼かっ た明治3(1870)年9月に家族で熱海に行った時も、相模屋に滞在したことが、 これで判明した。 鈴木旅館・別館ではなかったのである。
注記から、「倅弁之助」についての記述が、明治17年5月12日付福沢一太 郎宛書簡にあることがわかる。 「熱海之弁さん之事ハ、貴様八才之時之事な り。よくこそ記臆致居ると皆々驚入候。」 注記に、「「弁さん」は熱海温泉の相 模屋旅館の子息石渡弁之助。明治二年生れ、十六年十月入塾。十八年四月まで 在籍した。」とあり、相模屋の苗字が「石渡」であることもわかる。
6月19日付手紙の追伸の続きに、「母人半溺之旧跡」を通ったという話が出 て来る。 富田正文『考証 福澤諭吉』上によると、こうだ。 明治3年9月 14日、「そのころは、東海道の道中も不自由なもので、熱海に行く途中、湯河 原の門川(もんがわ)には満足な橋もなく、危なっかしい一本橋が架かってい ただけであったが、この日は風雨の強い日で、夫人がその一本橋の半ばで、突 風に煽られ川中に転落した。随行の駕籠屋が飛び込んで夫人を扶(たす)け起 こしたところ、水の深さは腰までしかなかったので一同苦笑し且つ安堵した。」
石河幹明『福澤諭吉伝』も第3巻539頁で、この件について書いているが、 「熱海は明治十一年頃行かれたとき、途中の小橋を渡らうとして夫人が河中に 吹き落とされ、お供の駕籠屋に助けられた事件があつてから餘り行かれなくな つた」と、年も、熱海へ行った回数も、間違っているようだ。
(都合により、明日の発信は夜になってからの予定です。)
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