岡本太郎は絶頂期であった。 芸術は、きれいであってはならない、うまく あってはならない、心地よくあってはならない、と主張した。 メキシコでは、 ホテルのロビーに巨大な壁画「明日の神話」を描くプロジェクトが進んでいた。 1970年の大阪万博で、「太陽の塔」の仕事をする。 丹下健三のシンボルゾー ンに、穴を明けることになる。 摩擦や、非難はあった。
瀬戸内寂聴、愛を語る―岡本太郎と敏子、究極の愛」の最終章は「母として」 だった。 寂聴さんは、「敏子さんは母、太郎にとって、そばにいたい、甘えた い存在」だったという。 「母性愛をもって、俺を包んでくれよ、悲鳴を上げ ているんだから」。
タレントとしてテレビなどに露出する一方で、病魔が忍び寄っていた。 パ ーキンソン病、敏子にはつらい日々であった。 75歳と60歳になっていた。 支え切る決心をしていたが、「私、疲れちゃったのよ」と泣いているのを見た人 もいる。 寂聴さんは「岡本太郎でない太郎さんを見たくなかった」と、近づかなかっ たという。 「岡本太郎に戻したい、あの魂が発振することがあれば」という、 二人の戦いは十年続いた。 平成8年1月7日死去、84歳。
7年後、メキシコのホテルが倒産して長く行方不明になっていた「明日の神 話」が35年ぶりに発見され、晩年の敏子が取り戻し、今は渋谷駅にある。 平 成11年には、川崎市岡本太郎美術館が開館した。 敏子は、岡本太郎という 存在を、その仕事を、世に知らしめるための活動を続け、平成17年4月突然 亡くなった、79歳。 寂聴さんは言う、「知ってあげて下さい、こういう生き 方もあるんですよ、ここまで愛し通した人を」。
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