正田庄次郎さんの「『文明論之概略』の日本近代化構想」
2011-11-14


 10月30日の「河上肇、秀夫人の支え」に引いた正田庄次郎さんの『抵抗の 系譜―福沢諭吉・中江兆民 河上肇・石橋湛山―』(近代文藝社・1993年)に、 「『文明論之概略』の日本近代化構想」という一文がある。(初出は「北里大学 教養部紀要」第6号、1972年「『文明論之概略』考」) 福沢諭吉を、民権論と 国権論に分けて扱った内の、民権論である。 これが、松沢弘陽さんが述べた ように、近年の福沢研究が指摘している福沢の光と影の、影の部分、つまり失 望や挫折に、早くも1972年に言及していたので、紹介してみる。

 正田庄次郎さんは序文で、「『文明論之概略』は、明治初年の国際情勢のもと で、本当の意味での国の独立を達成するために、その担い手となる近代的市民 の条件を問い、そうした市民による市民社会の形成を説いた、文字どおりラジ カルな書であった。いわば、幕藩体制崩壊後の、福沢の日本近代化構想といっ てよい。なぜそれがラジカルな性質をもつかといえば、時の政府は、徹底した 中央集権のもとでの制度変革に重点をおき、国民を支配される者と位置づけ、 旧精神の温存と再編をはかろうとしたのに対し、福沢は、その根底に個人の精 神革命を軸に時代の精神そのものの変革をすえたことによるものであった。両 者は思想レベルで鋭い対立をはらんでいた。/両者のこうした緊張関係が、い かなる憲法をもつべきかという緊迫した状況のもとであらわになったものが明 治十四年政変であった。」と、説明する。

 本文で正田庄次郎さんは、福沢の思想は、かれ自身の経験によって血肉化されているところに、著作のもつ迫力と説得力があるという。 それは自分の直接体験にとどまらず、人類の歴史的諸体験を、間接体験として知的に継承することまでを含めている。 こうした、身についた歴史意識が、福沢の平衡感覚と方向感覚の根底にある。 『文明論之概略』は「一身にして二生を経る」僥倖に恵まれた「時代の証言」、「推量憶測したる客論」ではなく、「主人自ら論ずる」時代の証言であった、とする。(つづく)

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