補陀洛渡海史
2011-12-19


 神野富一教授のレジメには、「付 補陀洛渡海史について」という詳細な「ま とめ」があったのだが、時間がなくてあまり話を聞けなかったのは、残念だっ た。 その一部を抜粋して紹介する。

 I 補陀洛渡海でめざしたのはどこの補陀洛か?

 各地に「写し」としての補陀洛が成立したが、「写し」は「写し」にとどまっ たのか? たとえば「那智は真正の補陀洛か否か?」という問いがある。 日 本の南方海上はるかかなたにあると思念された補陀洛へ行くというのは、中国 から入った補陀洛信仰と、折口信夫のいう常世(とこよ)信仰・常世観念とが習 合して、日本的に変容したもの。

 I I 補陀洛渡海史

 現在60近い渡海例が知られている。(参考、根井浄『補陀洛渡海史』2001年)  うち『熊野年代記』に20例(那智補陀洛山寺住僧の渡海)。 時代は平安〜江戸。

 補陀洛渡海の本質論は錯綜している。 生きながらの渡海と、捨身行・自殺 的行為の両面があり、今後研究されていくだろう。 神野さんは歴史的変遷へ の観点が必要だとして、つぎの三期に分ける「私案」を示す。

 ○第一期 11世紀から16世紀前半ごろまでの補陀洛渡海…「生きながら」の渡海

 賀登上人の渡海(長保2(1000)年) …土佐国室戸津。 藤原頼長『台記』の、 ある僧の渡海…熊野那智。 智定坊の渡海(天福元(1233)年) …熊野那智浦。  日秀上人の渡海(おそらく1520年代ごろ)、渡海後の生存と活動がわかる唯一の 例…那智から渡海、琉球国金武郡に漂着し、そこを補陀洛山と観じ、観音寺を 建立。やがて国王の重んずるところとなって琉球での仏教弘布に活躍、後には 薩摩にも。

 これらの例は、小船に乗って生きながらに補陀洛に到達しようとした。 渡 海の場所は、那智・室戸・足摺という、日本の南端で補陀洛世界に近いと信じ られ、観音信仰の霊場となった場所。 熱心な祈請や修行が観音の納受すると ころとなり、観音に導かれて渡海が成就するとされていた。 観音の理想郷到 達を信じての熱烈な信仰実践。

 ○第二期 16世紀半ばごろからその世紀末までの補陀洛渡海…入水による渡海

 イエズス会宣教師たちが見聞、記録した渡海。 堺のあたりで、ある修行者 と同行七人が船に乗り、沖合で投身した。(1562年発信のビレラ書簡)  伊予 国堀江で、男六人と女二人が一艘の新造船に乗り、体に石を縛り付け、海上に 漕ぎ出て、次々に投身した。(1565年発信のフロイス書簡)

 海への入水(投身)によって霊魂の補陀洛往生をめざした。 那智のほか、和 泉・堺・堀江(伊予)・肥後・博多など、人の集まる港町の沖合。 当時の世相 を背景に、浄土教的な「入水往生」と補陀洛渡海とが結合し、ファナティック な流行現象となったもの。

 ○第三期 17・18世紀の補陀洛渡海…水葬による渡海

 那智で補陀洛山寺の住職の遺体を水葬。 生けるがごとくに扱って海に流し た。 「補陀洛渡海」と称したが、形骸化した補陀洛渡海。

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