「長沼事件」所有権の問題
2013-06-01


 岩谷十郎さんの講演「『長沼事件』法史考」である。 私は法学にはまったく 無知なので、むずかしく、心覚えだけを書いてみたい(誤りがあれば、ご教示 下さい)。 法史、近代法の歩みがご専門という岩谷さん、「長沼事件」を通し て、近代法の幕開け期の所有権回復に至る道筋を法史的に再検証し、福沢の実 践的な交渉姿勢と法的思惟を再確認しようとする。 まず「長沼事件」の所有 権の問題を、二点に絞って考える。

 (1)なぜ“官有地”に編入されたのか? 明治5年2月、太政官が「地所 永代売買解禁」を布告、200年を経て徳川時代の土地所有を政策転換し、旧来 の「所持」(宝永年間〜)地に、所有権、処分権を付与し、壬申「地券」を交付 した。 明治6年7月の地租改正法・条例では、田畑貢納の法を廃し、「地券」 を持つ土地所有者に納税の義務、地租を課すこととした。 官有地・民有地処 分では、「地券」の有・無が、民有地・官有地の区分を決定した。 この地租改 正期に、「地券」が交付されていなかったことが問題になって、「長沼事件」と 同じく、近年も道頓堀川や三田用水の河川敷の所有権をめぐる訴訟があった。

 長沼村は、そのために周辺村からの悪水路浚渫の申入れを受けることになる。  そして6年4月、浚渫命令違背による沼高上地(あげち)、貢米、附加運上免 除申付けへと進む。 長沼の独占的使用が許されないことになる。

 明治9年7月、沼地貸下許可の指令(官有地第3種編入)で、悪水路を取り 除かず全部を五カ年長沼村に貸し渡す。 村民は大喜びするが、福沢は村有地 にならなければ何時引き上げられるかわからない、最終目標は私有地であり、 名義としての所有権を確立することだとする(明治10年11月14日長沼村民 宛書簡)。

 (2)明治33年払下げ時の状況。 明治32年国有土地森林原野下戻法によ って、関係周辺区村との利益を調整し、条件を詰めて、紛擾を避ける綿密な示 談契約をするように指導された。 その流れを示す沢山の証拠書類がある。 悪 水路は払下げ対象地から除かれ、国有地のままになり、他区の採藻権も容認さ れた。

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