死の味のする生の幸福
2013-08-06


 「風立ちぬ」の章。 節子はサナトリウムに入院以来、安静を命じられて、 ずっと寝ついたきりだった。 院長は私に、思ったよりも病竈(びょうそう) が拡がっていて、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよ、と言った。 す こし風変りな愛の生活が始まった。 「私達の日常生活のどんな些細のものま で、その一つ一つがいままでとは全然異なった魅力を持ち出すのだ。私の身近 にあるこの微温(なまぬる)い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私 の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交 わす平凡な会話、――そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あと には何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞという ものは要素的には実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで 私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にして いるからなのだ。と云うことを私は確信していられた。」

 「それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこ と位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。 が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心 に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり偸(ぬす)みでもする ように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時 は一そう完全に保たれた程だった。」

 そんなある夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、向うの 山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山 畑だのが、半ば鮮やかな茜色を帯びながら、半ばまた不確かなような鼠色に徐々 に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。 「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあった ら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」 「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉しいかの ように応じた。

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