徳富蘇峰「福沢諭吉君と新島襄君」の福沢
2013-12-11


 大河ドラマ『八重の桜』第47回「残された時間」に、元旦に新島襄が心臓 発作で倒れた明治21(1888)年、徳富蘇峰が自らの雑誌『国民之友』に「福 沢諭吉と新島襄」を書いたという話が出てきた。 その「福沢諭吉君と新島襄 君」(『国民之友』明治21年3月・17号)は、伊藤正雄編『資料集成 明治人の 観た福沢諭吉』(慶應通信・昭和45(1970)年、平成21(2010)年『明治人 の観た福沢諭吉』として慶應義塾大学出版会が復刊)で読むことができる。

 徳富蘇峰(猪一郎・文久3(1863)年〜昭和32(1957)年)は、熊本洋学 校に学んだ熊本バンドの一人で同志社に進み、中退してジャーナリストとなり、 明治20(1887)年民友社を設立し、綜合雑誌『国民之友』や『国民新聞』を 創刊、平民主義を提唱したが、生涯新島襄に傾倒していた。

 「福沢諭吉君と新島襄君」で蘇峰は、維新以来の日本の教育界で、その感化 を最も天下に及ぼしたのは、この二人だとする。 そして教育事業で政府と民 間とをくらべて、民間の力が政府に「優れること万々」と断じて、その民間の 力が誰の力かといえば、福沢と新島の二人のそれだという。 さらにこの二人 は、明治年間教育の二大主義を代表する人で、福沢は物質的知識の教育を、新 島は精神的道徳の教育を、それぞれ代表している、とする。(馬場註…福沢につ いては、当然異論のあるところだ。→「東洋になきものは、有形において数理 学と、無形において独立心」。)

蘇峰は、福沢の著作や『時事新報』社説は、自家撞着の議論が多いように見 えるけれど、福沢の唱道するところのものは、皆時世に応じて立てた議論だか らであるとする。 よく世の移り変わりに応じて、ものに凝滞(滞って進まな いこと)しないのは、福沢の本領であり、福沢の感化が天下に及んだのは、こ の「コモンセンス」の主義による。 「(福沢)君は決して時勢に後れて時と推 し移るに非ず、時勢に先だつて推し移るなり。是れ所謂る君が明治の社会に超 然独歩する所以にして、君が独特の技倆亦た此に在り。時勢の将に変ぜんとす るや、君先づ之れを観る。(中略)其の炯眼なる、恰も梟鳥の暗中に物を視るが 如し。」「蓋し君の明治世界に於ける感化の大なるは、他に比す可きものなし。 若し之ありとせば、それ唯だ第十八世紀の下半に於て、仏国の人心を支配した るヴォルテール其人あるのみ。」

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