25日の「等々力短信」第1067号「松陰、ペリー黒船に密航図る」は、まさ にグッド・タイミングになって、同日放送の『花燃ゆ』第4回「生きてつかあ さい」では、吉田松陰と金子重輔がミシシッピー号から、旗艦ポーハタン号へ 行く密航のシーンがあった。 自首して囚われた松陰は、「それこそが義の始ま りだ。異国の脅威を天下に知らせ、警鐘を鳴らす」と叫ぶ。
『花燃ゆ』の第1回で、杉文(すぎ ふみ・井上真央)は、河原で大声を挙 げ涙を見せる小田村伊之助(大沢たかお)と目が合い、話しかけられて、逃げ 出す。 その夜、文は弟・敏三郎がその河原で本を拾ったことを知る。 あの 男のものに違いない『海防臆測』という本の題字には、『甲陽軍鑑』という題が 貼られていて、剥がれかけていた。 それが幕府の「禁書」だとわかり、騒ぎ となる。 ところが九州遊学から戻った兄の寅次郎(伊勢谷友介)も、同じ『海 防臆測』を持っていた。 文と『海防臆測』を介して、松陰吉田寅次郎と小田 村伊之助は出会い、生涯の友人となってゆく。
この『海防臆測』だが、12月18日の当日記「「会読」の討論から知的共同社 会へ」にある。 12月6日の福澤諭吉協会の土曜セミナー、前田勉愛知教育大 学教授の「江戸の読書会の思想的な可能性―昌平坂学問所と福沢諭吉―」に出 て来ていたのだ。 『海防臆測』は、昌平坂学問所御儒者で、その書生寮を管 理していた古賀〓庵(1788(天明8)〜1847(弘化4)、古賀精里の三男)が 1840(天保11)年に著した。 古賀〓庵は、諸子百家に通じた博覧強記の人で、 ロシアへの危機意識など内に秘めた経世の志を持ち、大槻玄沢ら蘭学者との交 流もあり、他に開国論を説いた『擬極論時事封事』(1809?(文化6?)年)と いう著書もあるという。 『海防臆測』は、頑なに鎖国を維持する幕府の対外 政策を批判し、外国と渡り合うために、海外への進出、貿易を行うべきだとし た海外進出論を主張しているらしい。
前田勉教授はこの日のレジュメに、こう記していた。 「全国的規模の知的 共同社会を形成」するコミュニケーションの発生の場としての(自由闊達な雰 囲気の)書生寮、「幕末日本における政治社会の「議・横行」の先駆者」吉田 松陰(藤田省三)、「横断的議論と横断的行動と現世的地位(ステイタス)によ らずして「志」によって相集まる横断的連結とが出現した場合、その場合のみ 維新は維新となった。」(藤田省三『維新の精神』みすず書房。1967年)。
もう一つ、『花燃ゆ』第4回のタイトルに「高須久子 井川遥」と出た。 し かし、井川遥は出て来ずに、最後に松陰が野山獄に収監され、同じ獄の牢に入 れられている女の手らしいものが映って、第4回が終わった。 明日の放送で、 その正体がわかるのだろう。
「高須久子(たかすひさこ)」、『日本歴史大事典』によると、「(1818(文政1) −?)幕末、吉田松陰と獄中交友のあった女性。高洲久とも書く。萩藩士(大 組(おおくみ)、313石余)高洲五郎左衛門の娘。養子市之助(大組、418石余、 宍戸潤平の子)の妻。1846年(弘化3)夫と死別。生来陽気で、三味線好きが 高じ、芸能(三味線・歌など)に長じた被差別部落の弥八と勇吉との付き合い から、親族によって萩・野山獄への借牢(親族が費用負担)入りとなる。藩の 取調べに久子は、勇吉らとの交際は「平人同様」と主張。1854年(安政元)松 陰の野山獄入獄時、すでに在獄2年、37歳であった、松陰とは相聞歌を交わし ている。被差別の宮番の妻登波(とわ)顕彰のための松陰執筆の『討賊始末(と うぞくしまつ)』(1857年)は、久子の被差別の人々への対応に関連があると思 われる。」
前田勉教授の講演で、福沢の師・白石照山と書生寮で親しかった仙台藩士斎 藤竹堂の『鴉片(アヘン)始末』(天保14年・1843年)は幕末海防論の基本 文献であり、その竹堂には被差別部落民に対する人間平等論「治屠者議」があ るという話を聴いた。
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