スコットランド人「バートンとバルトン」
2015-02-27


 私は長い間、主として耳学問で福沢諭吉をかじってきた。 その中で唯一、 福沢研究に新発見を加える手伝いが出来たことがあった。 福沢の『西洋事情』 外編は「チェンバーズの『政治経済学』」の翻訳が主体なのだが、この「チェン バーズ」は著者ではなく、この教育叢書を出していた兄弟の出版業者で、著者 はジョン・ヒル・バートン(1809−1881)というスコットランド人であること が、ハーバード大学のクレイグ教授の調査研究によって判明した。 そのこと を私は平成5(1993)年1月15日の「等々力短信」第624号に書き、平成6 (1994)年の私家本『五の日の手紙3』に収録した。 その本を生命環境経済 学専攻の稲場紀久雄大阪経済大学教授の日出子夫人が読まれたことから、意外 な展開があったのである。  明治20(1887)年に来日したお雇い外国人で、W・ K・バルトン(1856−1899)というスコットランド人がいた。 東京帝国大学 の最初の衛生工学教授として多くの衛生工学の技術者を育て、内務省の顧問技 師として東京を含む主要都市の上下水道を設計する一方、浅草十二階「凌雲閣」 を設計し、近代的写真術を日本に紹介した。 私は稲場教授夫人からお手紙を 頂き、W・K・バルトンの父親の名が、ジョン・ヒルだと知った。

 稲場紀久雄教授の『都市の医師』(水道産業新聞社)のW・K・バルトンの履 歴と、クレイグ教授の論文「ジョン・ヒル・バートンと福沢諭吉」(『福沢諭吉 年鑑11』1984年福沢諭吉協会刊)を照合すると、W・K・バルトンがジョン・ ヒル・バートンの長男であることが判明した。 私は、それを「バートンとバ ルトン」と題して、平成7(1995)年3月25日の「等々力短信」第701号に 書き、福沢諭吉協会の機関誌『福沢手帖』102号(平成11(1999)年9月)に も同じ題で発表させて頂いた。 バートン(バルトン)は、親子で日本の近代 化に貢献したのであった、と。

 平成18(2006)年9月9日、W・K・バルトンの生誕150年記念式典がスコ ットランド、エジンバラのネーピア大学で行われ、記念碑が構内のクレイグ・ ハウス(バルトンが幼少年時代を過ごした家)横に建立された。 「日本の公 衆衛生の父」W・K・バルトンは、日本でこそ、その業績を知り、讃える人が あるけれど、日本と台湾12年間の活躍から帰国の寸前、東京で病没したため に、その人物と日本での優れた業績が、本国ではほとんど知られていなかった。  没後107年にして、W・K・バルトンは彼が帰還するにふさわしい場所に帰っ たのだった。 私は、それを『福沢手帖』132号(平成19(2007)年3月)「ス コットランドにW・K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―」で書かせ てもらった。

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