前田富士男さんの「追悼・車谷長吉」
2015-09-03


 『三田評論』8・9月号で、一番心に沁みたのは、「時は過ぎゆく」前田富士 男慶應義塾大学名誉教授(美術史)の車谷長吉さんの追悼文だった。 「三昧 場の思想、あるいは詩が小説をつつむこと」と、題されている。 前田富士男 さんの講演は何度か聴いたことがあったが、車谷長吉さんと親友だとは知らな かった。 前田さんは、昭和20(1945)年生れの車谷長吉さんと一緒に昭和 39(1964)年4月に慶應義塾大学に入学した(私は入れ違いに卒業)。 卒業 の3年後、仲間6人で同人雑誌『轆(ろく)』を出したという。 あと4人は 独文学研究高橋義人、精神科医北里信太郎、編集者の春日原浩と故・笠井雅洋 の各氏。 一号雑誌となったそうだが、車谷さんは力作「昭和二十年生まれ― ―天皇からの距離」(『女塚』2005年、所収)を寄せた。

 入学時に劇的な出会いをした、塾におけるもう一人の友人、のちに臨床心理 学者になった三好隆史さんは、車谷さんの関西での9年間の住所不定生活の時 代、病棟で水をはったバスタブに釣り糸を垂れる患者の箴言を伝え、小説書き もバスタブに釣り糸を垂れる仕事、あくまでも小説を書き続けよと励まして、 東京に戻ることを得させた。

 39歳で東京に戻り、堤清二氏の支援で社史編集の仕事についたものの、創作 に立ち向かう苦闘の月日であった。 ある日、危うい文言の速達を受けた前田 さんは、新潮社編集担当の鈴木力氏に連絡し、夜半二人で押し入れに無垢の木 鞘の小刀が投げ込んである、白山のアパートを訪ねたこともあった。 「当時 の私は微力ながら、この友人の幸不幸、功成るか成らずかを捨ておき、ともか く生を全うするように意を注いだ。およそ金銭の余裕などなかったが、車谷に ギリシアのアテネに旅するように、旅費はすべて工面するから、と何度かつよ く求めた。」

 そうしたつきあいは1993年まで続いた。 「この年、詩人高橋順子が彼の もとに現れる。あのときほど歓びに輝いた車谷は、ほかに知らない。愛情と信 義を分かちあえる歓びだったろう。私にも、深い喜びであった。なぜならそれ は、真正の詩人が小説家をつつみこむ、稀有の時にほかならなかったからだ。 以後、車谷とは安心して距離をとった。」

 「高橋順子の詩は、すべてをつつむ。しかも強く、やさしく。」 「海の舌は 億年岩をなめている/また会いに来ます 来られたらね と/ひとりごちなが ら 立ち去る/だるま山を越えて/いつもの荒い海のほうへ」(『海へ』2014 年)。 「荒い海を生きた車谷長吉。しかし車谷が詩の叡智につつまれた幸せを 思う。今素足で三途の川原に佇む友人に、声ひくく冥福を祈る。」と前田富士男 さんは結んでいる。

 『三田評論』8・9月号は、私のアリバイも証明している。 グラビアに7月 3日の三田演説館の第700回三田演説会で、質問者の前、真ん中に大きくメモ を取っているハゲアタマが写っている。 このメモは当日記の、7月13日「第 700回三田演説会、小室正紀さんの「工場法と福澤」」14日「福澤の近代社会 論、個人の自由独立と平等」、15日「福澤は初期に理想とした社会像を諦めな かった」となった。 10月号の予告には、講演録が載るとある。

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