二日目の14日は、弘前市立図書館へ行き、用意しておいていただいた同図 書館蔵の津軽家文書、江戸藩邸の日記「江戸日記」寛文8(1668)年〜慶應4 (1868)年、廃藩置県後の「御用留書」慶應4(1868)年〜明治3(1870)年 の、弘前藩から慶應義塾に派遣された勤学生(留学生)関係の部分を拝見した。 これは以前、福澤研究センターで坂井達朗先生を中心に、今回の旅行にご参加 の小室正紀先生、それと松崎欣一、米山光儀両先生が数日間、調査研究された 史料だった(坂井達朗「幕末・明治初年の弘前藩と慶応義塾―「江戸日記」を 史料として―」(『近代日本研究』第10巻、1993年)としてまとめられた)。 図書館からは、史料を用意して下さった福井敏隆さん(弘前市文化財審議委員 長)が立ち合って、いろいろと質問に答えて下さった。
私たちは古文書を読めないから、小室先生、川崎勝先生ご夫妻(夫人が中世 がご専門とは知らなかった)が、関係個所を見つけて、用意の付箋をはさんで くれる。 面白いところを、いくつか、紹介する。
元治元・慶應元年段階では、福沢諭吉の姓名も、藩の「日記方」には完全に 認識されていなかった。 「雄吉」、「英喜」と書いている。(「江戸日記」「雄吉」 …元治元年9月4日、「英喜」…慶應元年1月24日、閏5月19日) 津軽弁 を聞き取った為かどうかは、よくわからないという。 それが塾生の増加で、 弘前藩と慶應義塾・福沢は急速に接近する。 藩が洋書を購入するのを福沢が 助ける。 門下生岡田摂蔵洋行の際など。(「江戸日記」慶應2年2月24日、 慶應3年6月10日、7月10日)
国許を「出奔」した塾生(佐藤弥六の名が見える)を慶應義塾にかくまって 勉学させる。(「江戸日記」慶應4年2月27日、幕末で締め付けが緩く、寛大 になっている。)
勤学生への藩の補助と勤学生の生活。 最低限の学費と生活費を保証する。 勉学に必要な書籍は藩が購入して、学生に貸与する。(「江戸日記」慶應2年9 月7日、「同上」慶應3年9月10日) 「福澤洋学生」の場合は、慶應義塾で 定めた「受教料」を藩が支払う。 明治2年、毎月2歩から1両に倍増。(「御 用留書」明治3年7月27日) 幕末からのインフレの進行で、藩も勤学生へ の手当(「諸渡方」)を増加せざるを得ない。 明治3年閏10月には、一人宛 て「五両二人扶持」に増額。 明治2年8月、福沢が「慶應義塾新議」に書い ている留学費用、米の相場を1斗1両として、「一ケ月金六両にて……不自由 なかるべし。但し飲酒の入費は容易せざるは勿論……迚も肉食の沙汰に及び難 し。一年百両ならば十分なるべし。」 月額「五両二人扶持」ならば、1年96 両余になる勘定だ。
勤学生の数が増大して、その費用が藩邸の会計を圧迫する。 学生に自治組 織、「幹督」という役職を作らせて、自ら律するように求める。(「御用留書」明 治3年3月1日)
留学生はいずれも、ごく貧しい。 書籍のみならず、生活用品、衣類、果て は刀剣までも藩にねだっている。 礼服、大小も失くしている。(海軍稽古の7 人、海軍所に入門の際。「江戸日記」文久2年11月16日) 芝新銭座は蚊が 多かったらしく、蚊帳も買ってもらっている。(「御用留書」明治3年5月15 日)
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