兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」前半
2016-06-27


 3. 兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」

 (1)兪吉濬らの受け入れ。

 兪吉濬は1881(明治14)年、朝士・魚允中の随員として訪日、6月8日柳 定秀とともに慶應義塾に入学した。 前年における李東仁との接触、修信使金 弘集の東京訪問。 福沢の小泉信吉・日原昌造宛6月17日付書簡、「二名とも 先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前自分の事を思へ ば同情相憐むの念なきを不得」、「右を御縁として朝鮮人は貴賤となく毎度拙宅 へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く附合開 らける様に致度事に御座候。」 ⇒『時事小言』第四編における「アジア(朝鮮) 改造論」執筆。 自家を石室にしても隣家が木造板屋であれば「類焼」は免れ ないと譬え、脅迫してでも進めるべき朝鮮の「進歩」=「文明」化は、西洋勢 力の東漸から日本の「独立」を守るために、朝鮮の「独立」を守るためのもの だとする。

 福沢は、朝鮮問題について、挫折を繰り返す。 開化派は、福沢の思うよう にならなかった。 第一の挫折は、1882(明治15)年7月の壬午軍乱。 清 が属邦保護の名目で介入、大院君が清に連れて行かれ、閔政権が復活する。 『時 事新報』は沈黙。 12月、修信使朴泳孝一行が帰国、竹添進一郎(弁理公使) の赴任、牛場卓蔵(朝鮮政府顧問)・(随員)高橋正信・井上角五郎の派遣、兪 吉濬は閔泳翊とともに下関で合流する。

 兪吉濬は、1883(明治16)年2月統理交渉通商事務衙門(がもん)主事に 任命され、漢城府判尹朴泳孝が開設した漢城府新聞局で、牛場卓蔵の朝鮮での 文化事業である新聞創刊に従事し、福沢の「世俗文」の応用である、「国漢文」 つまり漢文・ハングル混合文体での発行を目指すが、朴泳孝が判尹の職を解か れ、二か月で頓挫する。 井上角五郎の関与で(朝鮮初の近代新聞)『漢城旬報』 が漢文で発行される。 (馬場は以前『漢城旬報』が初めて漢文・ハングル混 合文体を実用化したと書いていたが、それは1886(明治19)年の『漢城周報』 で、その創刊に井上角五郎が参画したと『福澤諭吉事典』「井上角五郎」にある。)   前出の兪吉濬の1883(明治16)年の著作「競争論」『世界大勢論』は「国漢文」、 つまり漢文・ハングル混合文体で、ハングル(本国文)が漢文より優れている という文字ナショナリズムの出発点。 福沢の『時事小言』『世界国尽』より、 内田正雄『輿地誌略』(1870(明治3)年)が原本。

 兪吉濬は1883(明治16)年7月日本を経て、朝鮮初の米国留学生として、 マサチューセッツ州セーラムのエドワード・S・モース宅に寄宿、のちにガヴ ァナー・ダンマー・アカデミーで大学入学準備。

[福沢]
[慶應]
[政治]
[歴史]
[世界]
[日本]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット