ニューイングランドの「知東洋派」
2016-07-02


 容應萸教授は、中国人と日本人留学生を受け入れた土壌、アメリカ・ニュー イングランドの「知東洋派」について考察する。

 中国からニューイングランドまで、1847年容〓が廣東からアメリカに向った 時は、ヨーロッパ経由で所要日数が98日だったが、1869年に大陸横断鉄道が 出来て、上海からアメリカ北東部まで約6週間で到着可能になった。

 1807年、最初のプロテスタント宣教師モリソン(Robert Morrison)が廣東 に到着。 1839年、ブラウン、モリソンを記念する馬礼遜記念学校の招聘でマ カオに到着。 1847年、ブラウンがアメリカに帰国した時、(前述の)容〓、 黄勝、黄寛が随行。 1859年、ブラウンとシモンズ、フルベッキが日本に派遣 される。 1866年、ブラウンが大原令之助ら6名の薩摩第二次米国留学生を母 校、モンソン・アカデミーに入学させる。

 米国東洋協会(American Oriental Society)が1842年ボストンで設立され る。 東洋は日本から中東までをカバーし、ブラウンをはじめ、ウルゼイ、ハ ドレー、サクター、ホイットニーなどが会員。 ヴァンネイム(Addison Van Name)は1870年頃大原令之助や佐土原の留学生など6人の日本人学生と同居、 容〓とも親交。

 アシュラム・ヒル会衆派教会の牧師トゥウィッチェル(Joseph H.Twichell) の日記に出てきた日本人学生の名前は、箕作佳吉、小島憲之、松平定教、駒井 重格、田尻稲次郎(専修大学を設立)。 田尻の留学を支援した。 トゥウィッ チェルはイェール大学卒、作家マーク・トウェイン(Mark Twain)の生涯の 親友、容〓の親友で「留米幼童」を支援した。

 ハートフォード高校学長のケプロン(Samuel Mills Capron)は、田尻に対 して自ら学資を補助した。 日本人学生に慕われ、箪笥を贈られている。 容 〓と家族ぐるみの大変親しい間柄。 特派員として日本に派遣されたハウス (Edward House)は、一時帰国の時に箕作佳吉と小島憲之が彼に随行して渡 米し、彼の友人マーク・トウェインに託され、その無二の親友トゥウィッチェ ルに紹介された。

 横浜のブラウン塾。 桑名藩知藩事であった松平定教と、藩士駒井重格は 1871年に上京、横浜のブラウンのもとで英学を学び、1874年に渡米した。 相 馬永胤は日記に留学中、田尻、駒井と交流していたことを記す。

 ハートフォード高校に在学した日本人学生は、田尻、箕作、小島、松平、駒 井のほかに、町田啓次郎、横井幾、八戸欽三郎、最上五郎の9名と市来宗介(?)。  中国人留学生は、私費留学の陳龍と「留米幼童」の蔡紹基ら27名。

 New Preston Village Cemetery(Upson Seminaryの近く)に、松平忠行の 墓がある。 享年20歳 Jan.4,1890  福沢桃介の『財界人物我観』によれば、 武蔵国忍藩主の弟で、光源氏か業平の再来かという美少年、明治18,9年の頃、 慶應義塾に学び、三田山上を逍遥するその楚々たる容姿は、薩摩隼人の眼を奪 い足を奪い、思わず「チェスト」を叫ばしたものだった。 加えて才智人に勝 り将来の大成を嘱目されていたのに、惜しいかな米国留学中彼の地で黄泉の客 となった。

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