中根鏡子(19)、夏目金之助(29)と結婚
2016-10-23


 土曜ドラマ『夏目漱石の妻』の第1回は「夢みる夫婦」。 漱石と鏡子の結 婚と、熊本での新婚生活を描いた。 ドラマは鏡子の父、中根重一貴族院書記 官長が立派な洋館から、家族や雇い人に送られて出勤するところから始まった。

鏡子はお嬢様だった。 この家は虎ノ門の官舎で、洋館に日本家屋がついた 屋敷には、家族のほかに書生3人、女中3人、抱え車夫1人の雇い人がいた。  中根重一は備後福山藩(現在の広島県)の貧しい藩士の家に生れたが、優秀だ ったため、上京して東京帝国大学医学部の前身、大学東校に入学、主にドイツ 語を学び、新潟医学所に勤めた後、官吏を志望して帰京、語学力を生かして官 界で活躍していた。

 夏目金之助・漱石と鏡子の縁談話は、漱石の兄直矩の郵便局での同僚、小宮 山次郎八が鏡子の祖父の囲碁仲間であったことをきっかけに始まった。 お互 いに写真を交換した後、明治28(1895)年12月、漱石は英語教師として月給 80円で赴任していた愛媛県尋常中学の松山から上京、中根が書斎に使っていた 洋館2階の20畳敷の部屋でのお見合いに臨んだ。 初めて会った時のお互い について、漱石は「歯並みが悪くてそうしてきたないのに、それをしいて隠そ うともせず平気でいるところがたいへん気に入った」(夏目鏡子述・松岡譲筆録 『漱石の想ひ出』)と言い、一方鏡子は、漱石の鼻の頭の痘痕が印象に残ったと いう。

 ほどなく婚約が成立。 明治29(1896)年4月、熊本の第五高等学校に赴 任していた菅虎雄の口入れで、第五高等学校に転任することが決まった。 漱 石は、東京から遠く離れた知らない土地へ嫁にやることが不安だったら破談に してもいいと、中根家に言い送ったが、漱石を見込んで「官吏全盛の世の中に」 「とにかくあまりぱっとしない中学教師風情に娘をやろう」(『漱石の想ひ出』) という中根の気持は変らず、熊本での結婚式となる。 中根重一は、友人で元老 院議官や内閣恩給局長を歴任した井上廉(れん)に名義上の媒酌人を頼み、井 上は古式に則った仰々しい式次第(今年、神奈川近代文学館の「漱石歿後100 年」展に展示されていた)をつくったが、受け取った漱石は慌てて式はできる だけ簡略なものにしたいと返事、簡単なものになった。

 明治29(1896)年6月9日、漱石29歳、鏡子19歳、漱石の借家でのその 結婚式、ドラマにもあったように、珍妙きてれつなものだった。 『漱石先生 ぞな、もし』によると、新婦についていった老女中が、仲人兼お酌人などと、 万端ひとりで取り仕切った。 三々九度の盃は、一つ足りない二つ重ね。 そ れも縁が欠けていたらしいことは、『道草』のなかのつぎなる会話でわかる。 「雌蝶も雄蝶もあったもんじゃないのよ貴方。だいち御盃の縁が欠けているん ですもの」 「それで三々九度をやったのかね」 「ええ。だから夫婦仲がこんなにがたぴしするんでしょう」 婆やと車夫が台所で働いたり、客になったりした。 これに新婦の父の4人 が、出席者の全部。 なぜか五高の同僚をはじめ友人は、ひとりとして呼ばれ ていない。 花嫁は振袖、花婿はフロックコートであったが、ほかはみんな普 段着。 式がすむと、あまりの暑さで、まず岳父が服を脱ぎ、漱石のかすりの 浴衣を借り、やがて裸になった。 とたんに花婿までが着物に着替えて片ぬぎ になる。

漱石は翌日、正岡子規に挙式の通知をして、<衣更へて京より嫁を貰ひけり> という句を送った。 子規からは、<蓁(しん)々たる桃の若葉や君娶る> <赤と白との団扇参らせんとぞ思ふ>の祝いの句の短冊が届いた。

漱石は新妻鏡子に「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえな んかにかまってはいられない。それは承知してもらいたい」(『漱石の想ひ出』) と宣言した。 「夢みる夫婦」、漱石の夢は「小説家になる」ことだった。

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