漱石と養父・塩原昌之助のやっかいな経緯
2016-10-25


 ドラマ『夏目漱石の妻』の第3回、「やっかいな客」というのは漱石の養父・ 塩原昌之助(竹中直人)である。 漱石の父、夏目直克は、江戸牛込馬場下横 町(現、新宿区喜久井町)の名主だったが、維新後明治2(1869)年に名主制 度が廃止されると家勢は衰えた。 慶應3年1月5日(1867年2月9日)漱 石が生れた時、直克は50歳、母千枝は41歳の高齢で、漱石の上には、母が異 なる二人の姉と、三人の兄がいた。 両親は漱石の誕生をさして喜ばず、漱石 は生後間もなくして、四谷の古道具屋(八百屋説もある)に里子に出された。  そこからはすぐ連れ戻された漱石は、翌明治元(1868)年に今度は直克が後見 人になっている四谷太宗寺門前名主塩原昌之助・やす夫妻の養子に出された。  やすは夏目家に奉公していたので、直克は夫妻の仲人でもあった。 子の無か った塩原夫妻は、漱石を溺愛し、高価な着物を着せ、好きな玩具を買い与え、 わがままを許した。 しかし昌之助の女性問題から夫婦に諍いが起き、やがて 離婚。 明治9(1876)年、9歳の漱石は塩原家に在籍のまま生家に戻った。  だが塩原家との養子問題が一応の決着をみるのには、漱石21歳の時まで待た なければならなかった。

 ドラマにも出て来たが、漱石を夏目家に復籍するにあたり、父・直克は塩原 昌之助に過去の養育料240円を分割返済した。 今年、神奈川近代文学館の「夏 目漱石100年目に出会う」展には、関係の書類が展示されていた。 直克は、 養育料240円を捻出するため、牛込喜久井町一番地の地所を担保に、三男・直 矩名義で借金をしていたが、その証文「地所書入証」の控(明治21(1888) 年1月27日)。 塩原昌之助筆「約定金請取之証」(明治21年1月27日〜明 治22(1890)年2月26日)。 夏目金之助(漱石)筆の養父・昌之助あて「離 縁後の一札」、昌之助はここに書いてある「互いに不実不人情に相成らざる様致 度存候也」という文言を盾に、後年、復縁を迫り、金銭的援助を求め続けた。  この21歳の漱石の筆跡は、実に流麗で、驚くばかりだ。 ドラマでは、鏡子 夫人が100円のへそくりを渡して取り返し、漱石が破ったが、現在は神奈川近 代文学館の所蔵となっている。 夏目家復縁から21年後、100円と引き替えに、 漱石と今後一切関係を絶つとした塩原昌之助の「離縁誓約書」(明治42(1909) 年11月28日)も、同館蔵である。

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