福沢桃介「国家管理」、松永「九電力私営」
2017-04-20


 松永安左エ門と福沢桃介の関係やその電力事業観の相違点については、昨年 5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の記念講演会で、杉山伸也 名誉教授の「福澤桃介と松永安左エ門」を聴いて、6月6日から10日までのこ のブログに書いていた。 松永安左エ門と福沢桃介に関して、これまで私が書 いたもののリストも初めに掲げている。

 竹森俊平教授の『国策民営の罠』は、その問題について橘川武郎氏の著作を 引き、簡潔にまとめている。 ともに慶應義塾で福沢諭吉の薫陶を受け、二人 して日本電力業界発展の礎をつくった福沢桃介(1868〜1938年)と松永安左 エ門とが、福沢桃介は電力の「国家管理」、松永は「九電力会社による私営」と いうように、異なった電力構想を抱いていく理由は、二人の「水火併用方式」 についての考え方の違いに求められるという。 過当競争による共倒れが頻発 する電力産業を統制するために、二人が1921(大正10)年から1926(大正 15)年にかけて発表した電力統制構想では、松永が民営、発送配電一貫経営、 水火併用方式などを提唱したのに対し、桃介は国営、発送電と配電の分離、水 力中心主義などを主張した。 松永は、つねに需要家向けのサービス向上を重 視し、桃介は、多額の資金を必要とする水力開発を第一義に追求したから、こ ういう対照的な構想になった。 松永の構想は、徹底して設備投資費用の高い 発電設備(当時は水力)の稼働率を高めるビジネスモデルで、常に最大の稼働 率で操業する「ベース・ロード」用(水力)と需要のピークの時だけに稼働さ せる「ピーク・ロード」用(火力)を巧妙に使い分ける「水火併用方式」であ った。

 松永は、1928(昭和3)年5月という早い時期に「電力統制私見」を発表す る。 全国を九地域に分けて一区域一会社主義をとり、群小会社は合同させて、 できない場合はプールし、供給区域の独占を認め、鉄道省が多く持っていたよ うな官・公営の火力設備も民営に移して全国的に負荷率、散荷率を向上させ、 料金は許可制とし、監督機関として「公益事業委員会」を設置すること。 こ の案は戦後になって、電力業が再編成されたものと、ほとんど等しいものだっ た。

 福沢桃介の「国家管理」の流れを継いで、1933(昭和8)〜34(昭和9)年 に内閣調査局案を作成したのが出 弟二郎(いで だいじろう)だ。 松永が、 発送配電一貫経営を実現する立体的統制をめざしたのに対し、出は、発送電と 配電を分離する英国のグリッド・システム(送電網)に高い評価を与えた。 松 永はグリッドの発展には、さほど関心がなかったようである。 竹森俊平教授 は、福島の原発事故によって発生した電力不足に直面して、この国の電力体制 の欠陥を理解するようになったが、とくにグリッドの不完全を挙げている。 東 電管内の電力が不足するなら、関西から送ればと考えたら、周波数が違って、 わずかしか使えないと判って、憤慨した(私も同感だった)。

 1939(昭和14)年に日本発送電株式会社(主として大規模水力発電に携わ る発送電専業会社)を柱とする電力の国家管理体制が確立した。 この構想の ブレインだった出が、せめて日本全国の周波数を統一して、日本中で発電され た電気を、一番電力を必要とする地域に送電することが、国家(戦争?)目的 の遂行のために必要だといった知恵を国家当局につけられなかったのだろうか。  ここから竹森教授は、戦時中の日本の国家管理体制というのは、実は弱い管理 体制ではなかったか、と思うのだ。 一方、松永がグリッドに無関心だったの は当然で、松永構想が電力会社の縄張りを決めての、あくまでも経営の安定に あって、全国的なグリッド・システム(送電網)は過当競争の場となる危惧が あったからである。(つづく)

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