鎌倉アカデミアの青春、「瞳さんのラヴレター」
2017-05-28


 山口瞳を追悼した『この人生に 乾杯!』(TBSブリタニカ・1996年)とい う本がある。 著者は、山口瞳と三十人。 冒頭に、治子夫人の「瞳さんのラ ヴレター」という文章がある。 「終戦後、私は鵠沼に住んでおりまして、瞳 さんは早稲田を中退して鎌倉にいました。ちょうどそのころ鎌倉・材木座の光 明寺というお寺に、鎌倉アカデミアという学校ができたんです。」と始まる。  治子さんは、女学校を卒業したばかりで、満18歳。 入学式で、瞳さんは生 徒の名前を呼ぶ係になっていて、終戦直後だから戦闘帽を被ったり兵隊の服を 着たりという人達の中で、ちゃんと背広を着てワイシャツに臙脂のネクタイを 締めてすごく目立っていた。

 吉野秀雄先生の短歌の講義で、吟行のグループが一緒になり、瞳さんの鋭い 感性や才能がとても魅力的に映った。 だんだん、何となく、初恋のように始 まった。 二人とも夢中で、学校で会っているのに毎日毎日手紙を書いていた。  <獣めくわが性の悲し砂濱に身を抛(なげう)ちて吠えんとぞする(瞳)>と いう歌が手紙にあった。 女友達に見せると、「アラ、治子さん、これは素敵 な歌よ、こんな気持ちになっていらっしゃるなら、山口さんはあなたのことす ごく好きなのよ」と言われた。

 9月27日付、古谷治子宛、山口瞳書簡の一部。 「あの歌を見て、今度の提 出短歌はよいと云はれた貴方のお目の高さ及び御親切な眞情に感謝したい気持 で胸が一杯です。文學すると云ふこと、簡單に言って裸になることは大變恥ず かしいことなのですが、ギッシングが言った“文學的作品ではなくして文學そ のもの”とは要するに裸になることだと私は考へて居るのですが、その様な“私 の文學”(傍点)に對しては、貴女一人の理解だけで充分だと考へて居りまし た所、先生にも詩情があると言はれまして、何か、青く晴れ渡った秋空を見た 時の様な爽やかな気持になりました。あの歌は、歌としては夫程よいとは思は れませんけれど、私の文學の構成要素竝びに契機となる所の“哀しい目”と云 ふ思想の産物でありまして…」。 手紙の末尾に、「今日ノ發見 「文學」と は恥ずかしいものである」(瞳)」。

 「鎌倉の主人の家はとても広い家でしたから、そのうち学校のお友達が集ま るようになりました。学校の活動の足しにしようと、夏には由比ヶ浜に海の家 を出して、そこで売るお汁粉だとかゼリーを山口の家で作ったりして。私も主 人の母にはずいぶん可愛がってもらいました。山口の家はとても開放的でした から、鎌倉の家で義妹たちと雑魚寝することもありました。寝ながら隣の部屋 に瞳さんがいると思うだけで、胸が高鳴りました。」

 <夜を徹し花札ひく君の声をさへなつかしみつつ床にゐて聞く(治子)>

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