旧跡「高田馬場(たかたのばば)」のこと
2017-07-10


 「戸塚村略図」が八幡鮨四代目・安井弘さんの『早稲田わが町』の巻頭にあ る。 戸塚村は戸塚町となり、昭和50年6月から町名が西早稲田と高田馬場 になった。 戸塚町は、神田川と諏訪通りに挟まれて、細長く西は小滝橋から 東はリーガロイヤルホテル東京までの地域で、昭和初期まで山手線より西の「上 戸塚」、中間の「諏訪」、「源兵衛」、旧鎌倉街道より東の「下戸塚」の四つの大 字に分かれていた。 早稲田大学と八幡鮨は「下戸塚」にある。

 八幡鮨(西早稲田3-1-1)は、旧茶屋町通りと重なる早稲田通りの角(西早 稲田交差点)、グランド坂上にある。 茶屋町通りというのは旧跡「高田馬場」、 三代将軍徳川家光が寛永13(1636)年幕臣の馬術の練習の場として築造した 幕府公儀の場所で、その後、付近に茶屋が次第に出来、馬場に練習に来る旗本 が休息に利用し、神事流鏑馬には江戸市中から見物が押し寄せ、春秋の好季節 には賭的、大的、小的、騎射、能囃子、土佐浄瑠璃、外記節、曲芸、かるわざ などが行なわれると、鬼子母神や新井薬師へ参詣する人が立ち寄って遊んで行 くようになった。 中仙道、川越街道、青梅街道への旅人や、近郊から野菜を 積んだ荷車の往来も賑やかになって、馬場の北側に松並木ができた頃には、茶 屋は八軒も並んで繁盛していた。

 この「高田馬場」は、元禄年間の堀部安兵衛の決闘で江戸中に知れ渡り、寛 政年間に入って「男伊達」が流行ると、喧嘩の場、試合勝負の場となったこと もあった。 勝負が始まると、高田馬場を喧嘩の名所にしてはならないと、馬 場道に並ぶ茶店で最古参の「藤屋」嘉兵衛が、扇子をかざして躍り出て、間に 入り仲裁をし、双方の話をよく聞いた上、和睦に至らせたという。

 蜀山人、大田南畝は、狂歌の会などで、高田馬場の茶屋をよく利用し、31歳 の安永8(1779)年8月13日から17日まで、ここの「信濃屋」で狂歌仲間と 五夜連続の観月宴を催し、<月をめづる夜のつもりてや茶屋のかかもついに高 田のばばとなるらん>と詠んだ。

 これで、茶屋町通りの東の夏目漱石の「馬場下」や、茶屋町通りの西の早稲 田通りと明治通りが交差する「馬場口」が、旧跡「高田馬場」に由来すること がよくわかった。 しかし山手線の「高田馬場」駅は、「馬場口」よりさらに西 の先に位置する。 明治43(1910)年9月15日に開業したが、当初鉄道院は 新宿と目白の間には駅は不要としていたのを、住民の声を代弁した大隈重信の 鶴の一声が、駅を誕生させたとも伝わっている。 駅の所在が上戸塚と諏訪村 にまたがっていたことから、地元の人は「上戸塚」か「諏訪の森」を希望した が、鉄道院は江戸の昔から知られた「高田馬場」と決めていた。 これを聞い た旧跡「高田馬場」の茶屋町通りの周辺の人々が、この名を駅名に持って行か れることに反対、駅側が高田の「田」に濁点をつけることを提案し、住民も了 解、「たかだのばば」駅となった。 江戸っ子は、昔から「たかたのばば」で、 今も地元では濁らないのだそうだ。 安井弘さんも書いているが、雑司ヶ谷育 ちの先代の桂文治(伸治が長かった小さい人)は、寄席の高座で「高田馬場」 駅が「たかだのばば!」「たかだのばば!」とアナウンスするのに、いつもブツ ブツ文句を言っていた。

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