福沢諭吉の「新しい世界の切り開き方」
2018-03-21


 NHKのEテレに『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』という番組があり、 2月13日は「しがらみから独立しよう〜福沢諭吉 新しい世界の切り開き方 〜」だった。 「ちえいず」といえば、知恵伊豆と称された松平伊豆守信綱(の ぶつな)、江戸前期の幕府老中、川越藩主、将軍家光・家綱に仕え、島原の乱・ 慶安事件・明暦の大火などに善処した人物だ。 こちら「知恵泉」は居酒屋の 設定、この回から店主は三代目の二宮直輝アナになった。 客は、パトリック・ ハーラン(お笑い芸人)、豆腐会社の鳥越淳司社長、おなじみ小室正紀(まさみ ち)慶應義塾大学名誉教授。 まったく知らなかった鳥越さんは前橋市の相模 屋食料(株)社長で、「誰もやっていないことをやれば成功できる、目の前にブ ルー・オーシャン、大海原が広がっている、豆腐を世界に広める」と全工程機 械化、チョコ味、抹茶味、モッツァレラ味などの豆腐も作り、ガンダムの「ザ ク豆腐」(枝豆味)は初日に14万丁売れたという。

 そこで福沢諭吉の「新しい世界の切り開き方」、(1)しがらみに困った時、(2) 自分でムチャだとわかった時、(3)世間が受け入れてくれなかった時、どうす るか?

 (1)しがらみに困った時の知恵、しがらみを抜けるついでに、もっ と先まで行く。 中津の下級武士に生まれた福沢、土蔵の二階で勉強していた が、万事に門閥制度がついてまわる。 中津を出るよりしようがないと、嘉永 7(1854)年長崎に留学するが、家老の息子の奥平壱岐のやっかみで、中津に 呼び戻されそうになると、同行の商人をうまく利用して、さらに先の大坂へ行 き緒方洪庵の適塾に入門、二年で塾長になる。 小室さんは、「目的は勉強する ことなので、Aが駄目ならBで行こうと、パッと切り替えられる」、と指摘。  大坂での勉強が認められ、安政5(1858)年江戸に呼ばれて中津藩中屋敷で蘭 学塾を開くが、開港された横浜へ行くとオランダ語が通じず、英語が飛び交う、 落胆したけれど、翌日から英語を猛勉強、それで幕府の使節団の通訳としてア メリカ、ヨーロッパに渡るチャンスを得る。 アメリカで70年前の大統領ワ シントンの子孫のことを聞いてもわからない、門閥制度でなく個人の能力が評 価される、進んだ社会を築いている、日本はどうすれば、この差を埋められる か。 富国強兵のためには、人材の育成が急務であると、西洋の教育制度に目 をつける。

 (2)自分でムチャだとわかった時の知恵、自分一人で進め。 慶應3(1867) 年12月、浜松町(芝新銭座)に1300平米の土地を購入、校舎をつくる。 慶 應義塾、論理的に自分の頭で考えられる人材を育成し、日本を新たな文明国へ 導こうとする。 彰義隊の戦争の日も、平然と講義を続けた。 世間にとんじ ゃく(頓着)するな。 小室さんは、「スピード感が違う、1.大胆な賭けをする チャレンジ精神、2.冷静な判断力。戦争は半日で終わると判断」と。 福沢は よく「ママヨ浮世は三分五厘」と言う。 社会を変えるのに、人を変える。 普 通の人をつくりたい。 会社や社会の流れに対して、たった一人でも「ノー」 と言える、それが健全な国民、それを育てたい。

 (3)世間が受け入れてくれなかった時の知恵は、また明日。

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