神吉拓郎の「ブラックバス」後半
2018-03-29


 その日、一緒に航空機用の機関銃の弾丸を帯のようにつなぐ挿弾子を作る工 場に動員されていた「彼」のクラスのキリンという友人が、秘密の釣場に姿を 見せる。 キリンの父は昔の外交官で、いよいよ負けたらしい、降伏すること になりそうだ、と昨日いった、という情報を伝えた。 正午に天皇の放送があ るというので、別荘に帰り、二人は長谷川夫妻と古い電蓄で聞いた。

 キリンは、鮭とアスパラガスの罐詰、とも子からの小さな封筒を持って来て いた。 とも子は「彼」やキリンと同いどし、「彼」と同じ学校の女学部を出て、 徴用のがれのために、ある航空関係の研究所につとめさせられていた。

 「彼」はテニスコートの方へ行った。 テニスコートは、まわりの柵をのこ して畑にかわっていた。 「彼」は柵に腰をかけ、陽ざしのなかにゆっくりと 右手をあげ、目の前で開いてみた。 食指と中指が根元からなかった。 まだ 夏になる前のある日、動員されていた工場で、プレスの恐ろしい力がそれをも ぎとっていったのだ。 左手を使えばまだテニスだって出来る、と「彼」は思 った。

 食事のあとで、「彼」はフランク・シナトラのレコードをかけた。 もうなん の遠慮もいらない筈だったが、彼等はいつもの絞った音でそれを聞いた。  煙草を探そうとして、ポケットに手を入れたとき、「彼」の手にとも子の手紙 がふれた。 「彼」はシナトラが、

I’ll never smile again……

 と若くのびやかに歌うのを聞きながら、手紙をゆっくりと読み、それから立 って行って、東京へ電話を申しこんだ。

 それは長い長い電話になりそうだった。

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