「海老床地図」で六義園からの流路を確認
2018-04-14


 川口政利さんは、12日に書いた「B説・江岸寺、圓通寺門前を通り、東洋大 学を経て、鶏声ヶ窪に抜け、後楽園で小石川と合流していた」を裏付けるため に、「海老床地図」の圓通寺門前の下水の註に注目する。 「コノ下水ハ柳沢甲 斐ノ守下邸ノ池カラ出テ来ル物デ末は鶏声ヶ窪ノ虎ヶ橋へ落チルノデ夏大雨が 降ルト此側ノ寺ノ墓場ハドコモ出水スルナリ」。 圓通寺の上流にある江岸寺の 山門前には、そこに川が流れていたことを示す橋の跡がある。 圓通寺内とそ の先の住宅にある流路は、後で用意周到川口さん持参の風呂椅子に上がって、 参加者が確認したのだった。 「鶏声ヶ窪」とはどこか。 『ぶんきょうの坂 道』の「曙坂」(誠之小学校脇から指ヶ谷方面へと下る階段)の説明に、東洋大 学の北西に曙町という旧町名の町があったが、明治2(1869)年町ができたと き、その南の方に里俗に鶏声ヶ窪という所があり、「鶏声暁にときをつげる」と いう言葉から、あけぼの(暁とおなじ)をとり町名とし、とあるそうだ。 白 山下から指ヶ谷方面に掛けての白山通りは窪地で、その辺りを「鶏声ヶ窪」と 呼んでいたらしい。 「虎ヶ橋」は、この流路が中山道と交差する地点に架け られた橋だった。 本郷通りを本郷三丁目から東大赤門前を北に進んで、東大 農学部前の三叉路が本郷追分、まっすぐ行くのが日光御成街道で、左に大きく 曲がるのが中山道である。

 この流路は、後楽園で小石川(礫川)と合流するという話だった。 礫川は、 「こいしかわ」とも「れきせん」とも読める。 「礫川(れきせん)公園」と いうのをよく聞く、「文京区 礫川(れきせん)地域活動センター」のホームペ ージに、「礫川(れきせん)地区の地形は、小石川台地の東端と千川(小石川)、 江戸川(現在の神田川)がつくった低地から成り立っています。」「礫川(れき せん)の名称の由来は、昔、千川、江戸川及び周囲の高台から流れ出た細流が 現在の後楽園付近で合流していたことによります。これらの川は砂や小石が多 いことから、この付近一帯を小石川村と呼ぶようになりました。礫川の礫とは、 小石(礫/れき・つぶて)が多い川「小石川」に由来しています。」とあった。

 川口さんの話で、もう一つ興味を持ったのは、徳川幕府が幕末、滝野川に反 射炉を建設し、「千川上水」が使われていたことだ。 『ウィキペディア』「千 川上水」の年表に以下の記述があった。 「慶応元(1865)年9月中旬、滝野 川反射炉建設につき滝野川村裏(元大蔵省醸造試験場。現在の北区滝野川2−6) へ、約2ヶ月半を要して、千川を堀割る(工業用水が必要になる)。 明治3 (1870)年滝野川反射炉跡地に紡績工場が建てられ、千川用水を撚糸器の水車 に利用する。」 なお、『西郷どん』にも出て来た、薩摩の島津斉彬の尚古集成 館の反射炉が完成したのは安政4(1857)年、江川太郎左衛門英龍の韮山反射 炉を英龍没後2年、子の英敏が佐賀藩の技術者の援助で完成させたのも安政4 (1857)年であった。

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