1982(昭和57)年9月、私はワープロを始めた
2018-04-24


 若い頃に、情報整理や発想法に興味を持った。 加藤秀俊さんの『整理学』 (中公新書)は1963(昭和38)年、川喜多二郎さんの『発想法(KJ法)』(中 公新書)は1966(昭和41)年、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』(岩波新書) は1968(昭和43)年の刊行だから、私の学生時代の後半から社会に出たての 時期に当たる。

 そして個人通信「等々力短信」の前身である「広尾短信」を、ハガキ通信で 始めたのは1975(昭和50)年2月25日、33歳の時だった。 謄写版の原紙 を和文タイプで打って印刷していた。 月3回「五の日」(広尾の縁日の日)5 日15日25日に発行、40部だった。 1976年(昭和51)年10月に等々力に 引っ越し、10月15日の59号から「等々力短信」とする。 ハガキ版は、1982 (昭和57)年9月5日の262号までで、263号からワープロ専用機「文豪」を 採用、A4判一枚の手紙スタイルにした。 261号(1982.8.25.)〜400号 (1986.8.15.)を収録した私家本『五の日の手紙』(岩波ブックセンター信山社 製作)を1986(昭和61)年11月5日に刊行した。

 その『五の日の手紙』に収録の第267号(1982(昭和57)年10月25日) 「僧ハ推ス月下ノ門、我ハ敲ク文豪機」、第268号(同年11月5日)「「筆不精」 が死語になる日」、第269号(同年11月15日)「マイ・ワープロの二か月半」 に、こんなことを書いていた。  「日本語をなんとか英文タイプでたたくように、簡単に、はやくきれいに書 けないものかと、先人たちはいろいろと苦労を重ねてきた。」「(1)(梅棹さん の『知的生産の技術』174頁に)日本人には自分のしとげた仕事について、報 告書などの記録を残す習慣が身についておらず、社会的蓄積がきかないという 大欠点があるという指摘がある。」「(2)深田裕介さんが、西欧は書類文化、契 約文化なのにくらべて、日本はおしゃべり文化、口約束文化である、向こうで はつねに書類(手紙)を読んだり書いたりする人がよく仕事をすると評価され るが、こちらは電話をしたり、会議や人と会うことの多いのがモーレツ・ビジ ネスマンである、という話をしていた。」「((3)取扱説明書の不備、(4)たく さんの筆不精の人々、も加え)これら四つの問題に共通するネックは、日本語 を書くことのめんどうくささにある。字を書く困難は、日本の「文明」進歩の 壁になっているのだ。そして今、小型のコンピューターの出現によって、われ われは日本語ワードプロセッサーという形で、その壁に穴が開けられた機会に 立ち会うことができた。より安く、より小さく、より簡単なワードプロセッサ ーが、先人たちの夢を実現する日はそう遠くはないようだ。」

 私がワープロを始めた1982(昭和57)年9月から、35年7か月が経った。

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