スバル座とガード下の飲み屋街
2018-06-25


 映画館・有楽町スバル座は、敗戦の翌年、昭和21(1946)年にオープンし た。 GHQが対米感情を和らげるためには、アメリカ映画の文化を日本に浸 透させるのが一番と、アメリカ映画の配給会社をつくり、その受け皿として、 第一生命を接収していたGHQに近い有楽町につくったのが、スバル座だった。

昭和21(1946)年12月31日にグリア・ガースン、ロナルド・コールマン 主演の『心の旅路』で開館した。 当時の写真を見ると、“Subaru Theatre” (treに注目)、“ROAD SHOW”“RANDOM HARVEST”(『心の旅路』の原題) とある。 「つづくガーシュインの伝記映画『アメリカ交響楽』が新作だった ので「帝都唯一のロードショウ発祥の映画館」と称した」といわれているが、 写真では既に『心の旅路』の時に“ROAD SHOW”の看板があった。

わが家も、まんまとGHQの思惑にはまり、よくアメリカ映画を観た。 私 は昭和21(1946)年には5歳だったが、おそらく翌年、母親に連れられて行 って、イングリッド・バーグマンの『ガス燈』(看板の写真に“GASLIGHT” とあった)に退屈したり、フランス映画『美女と野獣』(ジャン・コクトー監督、 ジャン・マレー主演)が怖くて後ろを向いていたのは、スバル座だったろう。  スバル座は、7年後の昭和28(1953)年9月6日の夕刻、火事を出して焼けて しまった。 H・G・ウエルズのSFを映画化した『宇宙戦争』を上映中で、観 客は最初、映画と本物の火事の見分けがつかなかったという。 この『宇宙戦 争』も、火事で焼ける前に観ていた。 スバル座の隣にも映画館があって、そ ちらにも行っていたのだが、その名前が「カリオカさん」と同じく、思い出せ ない。 ご存知の方は、ご教示を。 映画も、ジャズも、野球も、そして慶應 義塾の新聞研究室や図書館学科も、さらにいえば民主主義、六三制の戦後教育 も、GHQの方針や思惑があったと考えると、それにどっぷり使って生きて来 ただけに、ある種の重い感慨が横切らなくもない。

 「TOKYOディープ」は次に、ガード下の飲み屋街、通称「けむり横丁」へ 行った。 スバル座が焼けた昭和28年創業の「もつ焼き ふじ」で、皆さん楽 しそうに飲んでいた。 有楽町駅中央西口の辺りには、レンガのアーチ状の高 架橋(ガード)がよく見られる場所がある。 明治43(1910)年に10年かけ て、浜松町―呉服橋(仮停車場)間の高架橋が完成し、途中の高架上に有楽町 駅がつくられた。 電車の音が響く、108年経つガード下だ。 銀行に入った 私は、ここの焼き鳥屋さんや、ちゃんこ屋さんに集金に行っていた。 お店に 帰って、お札を数え直していると、脂の染みついた、独特の臭いがしたものだ。  ちゃんこ屋さんは「吉葉さん」、横綱吉葉山の経営とか聞いていた。

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