龍馬暗殺の黒幕説を消してゆく
2018-10-27


 前置きが長くなったが、磯田道史さんの『龍馬史』で読みたかった核心は、 龍馬暗殺「犯人」の探索であり、その一部として薩摩や西郷の黒幕説はどうな のかということにあった。 『龍馬史』第三章は、ずばり「龍馬暗殺に謎なし」 と題されている。

 磯田さんは、慶應3(1867)年11月15日の龍馬暗殺の実行部分については、 今日、幕府配下の見廻組以外に求める説は少なくなっている、とする。 見廻 組は、旗本や御家人の子弟を中心に集められた組織で、浪士の集まりである新 撰組よりは地位が高く、さしずめ現代なら検察庁特捜部のようなもの、高度な 政治判断に直結した動きが可能だった。 問題は、「殺害者たちに命令した黒幕 はだれなのか」である。 磯田さんは、史料を一つ一つ検証していく。

 まず、事件直後に疑われた(1)「新撰組黒幕説」。 戊辰戦争で敗れ、新政 府に捕らえられた元隊士たちは一様に、龍馬暗殺について尋問を受け、その取 り調べ調書が残っているが、その証言から新撰組の関与はなかったと考えられ る。

 (2)「紀州藩黒幕説」。 慶應3年4月、海援隊が運用していた「いろは丸」 が紀州藩の船と衝突する事件があった。 龍馬は、銃や現金を何万両も積んで いたといい、八万両(現在の約240億円)の賠償金をふっかけ、万国公法を持 ち出すタフな交渉をして、紀州藩に七万両を払わせた。 屈辱の紀州藩に、 最 も動機はあったが、龍馬を殺す命令を出したり、実行部隊を動かした形跡は全 くない。 少しでも動きがあれば、証言や史料が残るのだろうが、何も残って いない。

 (3)「土佐藩黒幕説」。 黒幕は、後藤象二郎説と岩崎弥太郎説の二説があ る。 後藤は当時、土佐藩の参政(家老)で、実権を持っていた前藩主の山内 容堂と近い関係にあった。 龍馬とは、その年の正月に長崎で会って意気投合 し、事件当時、龍馬の人脈を駆使して、政局を動かし、朝廷中心の政権を作り、 その中で少しでも土佐藩の地位を上げようと、龍馬に奔走してもらっていた。  実際、龍馬が音頭をとった大政奉還を建白したことで、後藤や土佐藩の京都で の地位は上昇した。 参謀のような龍馬を殺されて、非常に困ったのは後藤や 土佐藩だった。 岩崎弥太郎説は、ライバルである龍馬を殺せば、長崎貿易な どの利権が自分のものになるというものだ。 しかし、龍馬の死後、土佐藩の やる商売は、すぐさま岩崎のものにはならず、かなりの時間がかかっている。

 (4)「薩摩藩黒幕説」は、また明日。

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