武満徹さんと『解体新書』〔昔、書いた福沢134〕
2019-10-21


       武満徹さんと『解体新書』<小人閑居日記 2002.5.3.>

 出版社のPR誌『波』と『図書』は、ずっと送ってもらっているのだが、よ く目を通すようになったのは、時間が出来たおかげの一つである。 前なら 『図書』5月号に神谷敏郎さんという解剖学の先生が書いている「武満徹さん と『解体新書』」など、おそらく読まなかっただろう。          

 神谷さんと武満さんは、東京市本郷区の駒込曙町(現・文京区本駒込)に住 み、現在の都立駒込病院の裏手にあった富士前尋常小学校に1937年4月に 入学した同級生だった。 武満徹さんが43歳の時に刊行した私家版随想『骨 月あるいは a honey moon』に、こんな話があるという。 ご両親が満州にお られたので、武満さんは母上の実姉、曙町の伯母さんの家で育てられた。 母 方は、原姓で、その先祖は九州豊前中津藩の侍医を務めた家柄だった。 伯母 さんは生田流の琴に親しみ、その調べは感性豊かな武満少年の脳裏に強く刻ま れていったにちがいない、と神谷さんはいう。 伯母さん愛用の琴の「琴柱 (ことじ)」(琴の胴の上に立てて弦を支えるもの)について、武満さんが 『解体新書』とかかわりのある骨で作られているという面白い推論をしてい るというのだ。                            

 江戸後期の先祖に原養沢という蘭方医がいて、杉田玄白、前野良沢、中川淳 庵らと一緒に、明和8年3月4日(1771.4.18.)に千住小塚原で行 なわれた「腑分け」の観察に参加していた。 この時、玄白と良沢が偶然別々 に持参した洋書『ターヘル・アナトミア』の解剖図と、眼下に取り出された内 臓の所見が少しも違わず、古くから中国や日本の医書に記載されているものと 大きく違っている事実を知り、一同は西洋の解剖書の正確さに驚嘆、感激し て、良沢、玄白、淳庵らはその翌日から『ターヘル・アナトミア』の翻訳にと りかかることになる。 その話は、杉田玄白の『蘭学事始』によって、よく知 られている。                             

 当日一行は刑場に野ざらしになっていた処刑者の骨も、解剖図と寸分違わぬ 事実を知り感服したが、前野良沢は骨片をひそかに持ち帰った。 前野良沢 は、原養沢の先輩にあたる中津藩医で、後に弟子の原養沢に、一片の骨を「骨 は心の闇に懸る月、闇深い夜(世)に皓(しろ)く冴える」という内容の歌を 添えて手渡した。 養沢は師から受け継いだ骨を、西洋医学をを学んだ証とし て、座右において研鑚に励んだ。 武満さんは、養沢ゆかりのこの記念碑的な 骨が、いつしか琴柱となって原家の琴に組み込まれ、そこで奏でられる弦の音 調には、養沢の魂がこもり、弾く人の想いがハーモニーされて、後世に伝えら れてきたのではないか、と推論しているのだという。 (つづく)

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