福沢諭吉協会で徳島と松山へ[昔、書いた福沢154]
2019-11-18


      徳島の慶應義塾分校<小人閑居日記 2002.10.27.>

 福沢諭吉協会の第37回福沢諭吉史蹟見学会に参加させてもらって、徳島と 松山へ2泊3日の旅に出た。 一日史蹟見学会には何度か参加しているが、泊 まりの旅行は昨年の和歌山に続いて二回目である。 羽田空港8時50分発の JASで、徳島空港へ飛ぶ。 藍の一大産地だった阿波徳島の藍の豪商三木家 (三木産業株式会社)が阿波藍関係の諸史料や同家事業の記録などを保存して いる「三木文庫」を見学。 鳴門観潮のため、鳴門側から淡路島にかかる大鳴 門橋の本来鉄道用だったスペースに作られた「渦の道」を歩く。 史蹟阿波十 郎兵衛屋敷で、イベントの為たまたま公演中の人形浄瑠璃「傾城阿波鳴門順礼 歌の段」を観る。 阿波おどり会館で、同館専属の連「阿波の風」の阿波おど りを見物、一部の人は舞台に上がり、連と一緒に踊る阿波おどり体験をした。

 明治8年7月から9年11月までの短い間だが、徳島に慶應義塾の分校があ った。 昨年4月建てられたその記念碑を見学。 碑のすぐ前の徳島プリンス ホテルに宿泊。 セミナーが開かれ、西川俊作福沢諭吉協会理事の「徳島慶應 義塾について」という講演を聴いた。

    井川の内田弥八、大歩危から道後温泉へ<小人閑居日記 2002.10.28.>

 徳島市から三好郡井川町へ。 井川町ふるさと交流センターで内田弥八の展 示資料を見学。 内田弥八は幕末井川に生れ、大阪で丁稚奉公をしたり、大阪 江戸で漢学を学び、郷里で戸長(村長)を務めたあと、22歳の明治16年慶 應義塾に入り、20年に卒業した。 在学中の明治18年、末松謙澄がロンド ンで刊行した英文著書を『義経再興記』と題して翻訳、ベストセラーになった。  この本は源義経がジンギスカンになったという伝説を燃え上がらせる導火線と なった。

 内田は在学中から塾生で一人、福沢諭吉の国内旅行に随行するなど可愛がら れるが、卒業後貿易を志し、中国、インド、オーストラリアなどを漫遊、途中 で病を得、帰国して療養するものの、明治24年30歳の若さで亡くなる。 J R土讃線佃駅近くの公民館前にある、内田の「臨死自記」と福沢の追悼文を刻 んだ石碑を見学した。 内田家を継いだ古郷家のご当主や郷土史研究家を始め、 地元の皆さん心尽くしの手打そばと丹精の菊による温かい歓迎を受けた。

 大歩危で舟下りを楽しみ昼食、松山自動車道を一路松山市へ。 おりから4 00年祭という松山城を見て、わが国最古の温泉、道後温泉の、漱石が「はじ めての鮒屋泊りをしぐれけり」と詠んだ「ふなや」に泊まった。

       子規と俳句の都・松山<小人閑居日記 2002.10.29.>

 道後温泉を出て、四国八十八ケ所の五十一番札所、子規が「南無大師石手の 寺よ稲の花」と詠んだ石手寺に参詣。 松山市立子規記念博物館へ。 常設展 示にも、短時間ではとても見きれないほどの正岡子規があったが、この日から 11月24日まで特別企画展「子規と故郷」の開催中だった。

 「春や昔十五万石の城下哉」「城山の浮み上るや青嵐」「松山や秋より高き天 守閣」の正岡子規を中心に、松山は高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田 波郷など数多くの俳人を輩出し、今も俳句がさかんで「俳都」と呼ばれている。  ところどころに「観光俳句ポスト」が設置されていて、投句用紙が置かれ、投 句を受け付けている。 私も川柳もどきを一句詠んだ。 「冬近しぼっちゃー んと入る道後の湯」。 砥部焼観光センター、伊予かすり会館などに寄り、16 時15分松山空港発のANA便で無事帰京した。

          道後温泉「ふなや」<小人閑居日記 2002.10.30.>


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