小栗忠順・栗本鋤雲と福沢[昔、書いた福沢161]
2019-11-26


        小栗上野介忠順<小人閑居日記 2003.1.5.>

 3日のNHK正月時代劇は、小栗上野介忠順(ただまさ)を扱ったが、一口 でいえば駄作だった。 41歳の若さで官軍に打首にされてしまったためか、 小栗上野介はあまり取り上げられない。 その点では、今回の番組も意義があ ったかもしれない。

 小栗で、すぐ思い出すのは、司馬遼太郎さんの『明治という国家』で、司馬 さんは小栗を「国家改造の設計者」だったと言っている。 小栗家は三河以来 の家柄で、二千五百石、神田駿河台に屋敷があった。 家格としては小大名に 釣り合い、ドラマで重要な役柄だった小栗夫人は、げんに一万石の大名の息女 だったという。 小栗は無口な実行家で、文章もほとんど残していないそうだ。  薩長がイギリス、幕府がフランスを後ろ盾に、幕末の勢力争いは進行した。 小 栗は、幕府の軍制をフランス式に変えるべく設計し、見事に実施し、海軍と海 運を大いに充実し、徳川家を中心にしたヨーロッパ型の国をつくろうとした。  そのために横須賀に世界的なレベルの造船所をつくるという大構想を実行に移 す。 勘定奉行をやって幕府の金庫の中身を知った小栗は、フランスと結ぶこ とで、その資金を得る道を選ぶ。 横須賀造船所の施行監督に選んだのが栗本 瀬兵衛(のちの鋤雲(じょうん))で、小栗は栗本に(ドラマでは勝海舟に)、 造船所が出来上がれば、たとえ幕府がほろんでも「土蔵付き売家」という名誉 を残すだろうと、言ったという。 小栗には、歴史を大きく見る視野と、つぎ の国家へのうけわたしという思想があったと、司馬さんも指摘している。 司 馬さんは、徳川家とその家臣団に革命裁判をいっさいやっていない新政府が、 知行地の上州権田(ごんだ)村にひきこもっていた小栗をとらえ、小栗の言い 分もきかず、切腹の名誉を与えずに、ただ殺してしまったのは、小栗(という 人物の力量)がおそろしかったからだ、といっている。  

       幕府内の親フランス派<小人閑居日記 2003.1.6.>

 石井孝さんの『明治維新の舞台裏』(岩波新書)の、小栗上野介忠順が出て来 るところを拾い読みする。 幕末、薩英戦争と四国連合艦隊の下関砲撃によっ て、薩長は、列強の軍事力には抵抗できず、開国は避けられないことを知り、 貿易を通じて藩の富強化をはかる道をとっていく。 それには幕府による外国 貿易の独占という幕藩体制下の固有の制度を突き破ることが必要で、諸藩は幕 府から離れていくことになる。 この時、幕府には、とるべき二つのコースが あった。 一つは、雄藩に譲歩して、幕府みずからすすんで自己を雄藩連合政 権に改組することで、もう一つは、時代の流れにさからって幕府の独裁を強め ることだった。 前者の代表者が勝海舟、後者のそれが小栗忠順だった。

 栗本瀬兵衛(鯤(こん)、鋤雲)は、幕府医官の家に生まれ、箱館にいたとき、 フランス人メルメ=ドゥ=カション(ドラマでトルシエのダバティー通訳が演 じていた)と知り合い、日本語を教えたが、その後カションは公使館の書記官 になり、栗本も幕府の要職についたので、栗本はカションとの親交を利用して、 フランス公使ロッシュとの交渉において重要な任務に従事するようになる。  小栗、栗本など幕府内の「親仏派」は、幕府の権力を振興し、その独裁を強め るために、フランスの力(軍事力、経済力)を利用しようとする。 その最初 の大きな企図が、小栗、栗本コンビによる横須賀造船所(兵器廠、幕府では「製 鉄所」という)の建設だった。 


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