2020-03-16
薩英戦争と福沢の翻訳<小人閑居日記 2006.6.24.>
21日放送の“その時、歴史が動いた”「幻の大艦隊〜イギリスから見た薩英
戦争〜」で、若き福沢諭吉の訳した生麦事件についてのイギリスの抗議文の一
節が、薩摩藩の誤解を生んで、激高させ、薩英戦争の一方の原因になった、と
放送していた。 イギリス側にも、7隻の艦隊で鹿児島湾に入って威嚇すれば、
薩摩は簡単に屈服するだろうという誤算があって、両者のすれ違いの中で文久
3(1863)年7月2日の薩英戦争が起こったというのだ。
代理公使ニールの書簡の問題の箇所は「襲ひ懸りし諸人中の長立(おさだち)
たるもの等を速に捕へ吟味して、女王陛下の海軍士官の壱人或は数人の眼前に
て其首を刎ぬべし」というところで、「長立(おさだち)たるもの」を島津久光
と勘違いした、のだという。
問題の書簡は、『福澤諭吉全集』第20巻「幕末外交書訳稿」571頁〜577頁
に収録されている。 『福翁自伝』にも、2月19日の夜中に外国奉行松平石見
守の赤坂の宅に、杉田玄端、高畑(畠)五郎と三人で呼び出されて、訳したと
ある。 「訳稿」の訳者は、高畠五郎、福澤諭吉、箕作秋坪、大築保太郎、村
上英俊の五名になっていて、『福澤諭吉全集』の『福翁自伝』の注釈に杉田玄端
とあるのは箕作秋坪の記憶違いではないかとある。
「訳稿」の問題箇所は、 NHKが引用した部分の直前が「「ヘール、リチャ
ルソン」を殺害し及び「リチャルソン」に同伴せし貴女と諸君を殺さんと」と、
なっている。 「貴女と諸君」という翻訳が可笑しいが、生麦事件の下手人を
指すのは明白で、誤解のしようがない。 さらに『福澤諭吉全集』の編纂者は、
この書簡の複数の訳者の内、福沢の筆跡の部分、あるいは福沢が補記した部分
を明示している。 それを見る限りでは、問題の箇所は、他人の筆跡の部分に
入っている。
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