『歴史秘話ヒストリア』「福沢諭吉センセイのすすめ」
2020-05-23


 20日のNHK総合『歴史秘話ヒストリア』「福沢諭吉センセイのすすめ」を 見た。 当日、この番組があることをメールでお知らせ頂いた福澤諭吉協会会 員の大久保啓次郎さんは、福沢がどう扱われるか、以前下記で私が指摘した朝 日新聞のような扱いになるのかもと、心配されていたが、杞憂に終わった。

朝日新聞「文化の扉 歴史編」の「福沢諭吉」<小人閑居日記 2014.4.18.>[URL]

朝日新聞「ひと」の安川寿之輔さん<小人閑居日記 2014.4.19.> [URL]

番組は、都倉武之慶應義塾福澤研究センター准教授(日本政治史)の解説を 柱にして、「日本人の心をつくった巨人 福沢諭吉の真実」を、三つのエピソー ドで描いた。 それは、長い間、私が福沢諭吉に関する耳学問をしてきたこと によって確信している認識と、まったく同じものだったので、とても嬉しかっ た。 特に、「脱亜論」批判への反論、福沢の朝鮮近代化への関わりがよかった。

[エピソード1]おのれの力で時代を渡れ。 福沢は、故郷中津での厳しい 身分制度に苦悩し、何とか未来を切り開きたいと学問に励み、漢学から、1853 (嘉永6)年の黒船来航で西洋の知識が必要と1855(安政2)年大坂の緒方洪 庵の適塾に入門、なりふりかまわず三年学び、江戸へ。 1859(安政6)年幕 府の遣米使節団の木村喜毅に頼み込んで従者として咸臨丸でアメリカへ、1860 (万延元)年2月サンフランシスコで、工業技術は適塾で学んでいて驚くにあ たらないが、驚いたのは社会や日常生活、ワシントンの子孫を知らない人や来 客に亭主があたふたする夫婦の姿で、身分制度も男尊女卑もないことだった。  都倉さんは、「西洋の精神に目を向け、自分の行動を修正し始めた」と指摘する。  明治維新まであと8年である。

 福沢は、幼い頃も、『福翁自伝』にあるように、殿様の名を書いた紙やお札を 踏んでみたりした、常識にとらわれない「考える少年」だった。 都倉さんは 「自分でやってみて、確認する。原因と結果を、科学的に考える精神が、小さ い時から福沢の中にあった」と。

[エピソード2]日本人の心の持ち方を示す、大ベストセラー『学問のすゝ め』。 1872(明治5)年出版の『学問のすゝめ』、累計340万部、10人に1 人は読んだ。 日本社会の仕組みや、日本人の心の持ち方を変えた。 「天は 人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という冒頭の文の真意は、本来人 間は平等に生まれたのだが、貴賤貧富の差ができるのは、学ぶか学ばないかで 決まる。 都倉さんは「激励するところに意味がある」と。 「慶應義塾紀事」 に、学ぶべきは西洋の実学(サイヤンス)、科学だとする。 自分で問題を見つ け、科学的合理的に答を探していく方法だ。 地理学、窮理(物理)学、歴史、 経済学。 合理的にものを考えることが、「生きる道しるべ」になる。

一例として、「長沼事件」。 成田市長沼、小川不二夫さん、四代前の小川武 平が『学問のすゝめ』を読んで、1874(明治7)年福沢に相談する。 300ヘ クタールの長沼は長沼村のものだったが、維新後の混乱で国有地とされ、他村 の者が入り込むようになった。 福沢は「自由を妨げるものは政府の官吏とい えども憚らず」と言い、武平がどこまでもやり通すならと、支援に乗り出し、 嘆願書を作り、役人に手紙を出す。 2年後、村が沼を優先的に利用すること が認められる。 福沢は謝礼を受け取らず、逆に500円を寄付、こういうこと にならないためには教育が必要だとし、1881(明治14)年長沼小学校が千葉 二番目の小学校として開校する。 1900(明治33)年3月、沼は村に戻り、 記念碑が建ち、小川不二夫さんは「長沼下戻記念の歌」という感謝の歌を歌っ た。


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