E・S・モース宛の福沢書簡
2020-11-22


 福沢諭吉の長男一太郎、次男捨次郎がアメリカに留学したのは、明治16(1883)年6月で、帰国したのは明治21(1888)年6月だから、5年間という長期にわたるものだった。 一太郎は初めニューヨーク州イサカのコーネル大学に、後には同州ポキプシイのイーストマン実業学校に学び、捨次郎はボストンのマサチューセッツ工科大学に学んでいる。 ボストン郊外のセイラムに住んだ捨次郎は、三度目の日本滞在を終えて明治16(1883)年3月に帰国していたE・S・モースの世話になった。

 『福澤諭吉書簡集』第4巻に書簡番号887 明治17(1884)年8月13日付のE・S・モース宛、東京三田からの福沢書簡がある。 「プロフェッサ モールス貴下ニ呈ス 次男捨次郎ヨリ度々来書、貴下ノ御無事健康ヲ承ハリ欣喜ニ不堪候」と始まる(以下、読み下す)。 捨次郎が、先般からボーストンの学校に入学したので、毎度尊宅へまかり出で、いろいろご深切にお世話して頂いている由、有難く思っています。 ことにセイレム滞在中はほとんど毎日お目にかかっているそうで、お仕事の妨げにならないかと心配しています。 少年のことで、百事お気づきのことがあれば、ご忠告を願います。 朝鮮留学生の愈吉濬も、お手元でお世話下さっているそうで、この者は前年久しく日本で拙宅におり、英語はよく通じないけれど、西洋文明のことどもは少しずつ智見を得ている人物です。 今貴下のご深切をもって英文をも読み慣れて、その学業が進歩するのは、私にとっても悦ばしいところです。 日本の教育については、薄々お聞き及びかと思います。 儒教主義などと申して、奇妙なことを唱えておりますが、近日文部省の役人も更迭、世間もこの風潮を許さず、ついには元の英学に立ち戻る勢いです。 これまた優勝劣敗の真理に基づくものか。 「一笑。 福沢諭吉 拝」と、結んでいる。

 最後のところは、モースが滞日中、昨日みた慶應義塾を始め、しばしば「進化論」の講演を行ったことを意識している。 英学に立ち戻る勢いについては『書簡集』の注に、詳らかでないが、この年5月7日、駐英公使を辞任帰国した森有礼が参事院議官兼文部省御用掛に就任し、同月14日には文部小輔兼元老院議官の九鬼隆一が駐米公使となって文部省を離れているので、福沢はこれらの人事のあとに、文部省内に何らかの変化が生じると予測したものか、とある。

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