「インドの緑の父(Green Father)」杉山龍丸
2021-09-07


 そこで「二つの悲しみ」を書いた杉山家の三代目、杉山龍丸(たつまる・1919年(大正8年)〜1987年(昭和62年))である。 杉山泰道(夢野久作)の長男、1937年(昭和12年)福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1940年(昭和15年)陸軍士官学校を卒業した。 太平洋戦争のボルネオで大勢の部下が命を落とし、隊長である自身も胸部貫通銃創の重傷を負った。 陸軍少佐で終戦を迎え、戦後は戦死した部下の遺族を訪ねて全国を行脚した。 父の残した杉山農園で、農業に従事した。

 やがて戦友の紹介で、農業の技術を学びたいというインドの青年を農園に受け入れ、農業を教えるようになる。 それが縁で1962(昭和37)年にインドに渡り、砂漠化が進んで旱魃と飢饉が続いているインドの悲惨な状況を目の当たりにする。

 実は、龍丸の祖父・茂丸は、過激派のため日本に亡命したインドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースと交流があった。 ボースは、新宿中村屋の相馬俊子(愛蔵と黒光の娘)と結婚して、インドカリーを日本に伝えた人、中島岳志は著書『中村屋のボース』で、スバス・チャンドラ・ボースとの区別を明確にした。 茂丸は、ボースを介して当時のインドの惨状を知らされ、飢餓に苦しむ人々の写真なども入手していた。

 インドの現状が、祖父の時代から長い時間が経過しても、何も解決していないことを見た龍丸は、農業家として、インドの飢饉対策には日本の治山治水の考え方が役立つはずだと思う。 そのためには木を植えようと考えるのだ。 そして、砂漠となったパンジャブ州の国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深く、パルプの原料となる植林をし、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて灌漑のための水を確保することを提案した。

 植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も協力を中止したが、龍丸は家族を日本に残して渡印、杉山農園を切り売りして、資金を調達して植林を続けた。 結局、4万坪の杉山農園、家屋敷はすべて人手に渡り、借家住いとなったので、国連の環境会議には出席を求めた友人から旅費を借りて出席したという。 また、祖父・茂丸が台湾で関与して開発された蓬莱米(台湾の気候に合うように改良された米、台湾で増収に成功)の種籾(海外持ち出し禁止)をインドに持ち出すことに、茂丸の孫ということも考慮されてか、成功した。

 インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は、杉山龍丸の功績であるとされ、「インドの緑の父(Green Father)」と呼ばれているという。

私は、アフガニスタンに灌漑用水をつくった中村哲医師は、福岡市の出身で県立福岡高等学校の後輩だから、どこかで杉山龍丸の影響を受けていたのではないか、と思った。 最初は日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されて、1984(昭和59)年にパキスタンのペシャワールに行ったようだけれど…。

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