藤原QOL研究所の藤原一枝先生が以前送って下さっていた医学雑誌『ミクロスコピア』(考古堂書店)の、2008年夏号(25巻2号)を再びたまたま他の物と一緒に送って下さった。 パラパラやっていると、西條敏美さん(県立徳島中央高等学校教諭)の「28歳で没した日本初の眼科女医 右田(みぎた)アサ(1871〜1898)」が眼に入った。 「科学者のふるさとを訪ねる 第9回」で、東京都北区田端である。
右田アサは、明治4(1871)年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれ、明治10(1877)年、7歳のとき、右田隆庸(たかつね)の養女となる。 名家右田家の没落しかけた家運を回復しようと、明治20(1887)年、17歳で上京、辛苦をなめながらも2年後の明治22(1889)年、当時例外的に女子を受け入れていた済生学舎という医学校に入学した。 後に女子のための医学校を創設した吉岡弥生と同じ年に生まれ、同じ年に済生学舎に入学したことになる。 アサは入学したその年、医術開業前期試験に合格、4年後の明治26(1893)年23歳で、晴れて後期試験にも合格した。
開業試験に合格した後、さらに外科を専攻したが、将来のことも考えて、明治28(1895)年25歳の時、眼科の大家井上達也に師事して、眼科も修めた。 ここに日本初の眼科女医が誕生した。 アサが達也の井上眼科病院を訪れたのは5月20日のことで、翌日から通学生として眼科の修業が始まった。 そのとき達也は円熟した48歳で、彼の右に出るものはなかった。 10日ほど通学した後、6月2日には入塾した。 ところが翌月15日、達也は落馬事故がもとで急逝した。 アサは翌年3月まで井上眼科病院に留まり修業を続けたが、4月には、静岡の復明館という病院に招かれて勤務した。
その後アサは、達也の養子、達七郎がヨーロッパ留学から帰るのを知り、再び井上眼科病院に戻り、眼科の奥義を究めんとしていた。 そんなアサであったが、肺結核に冒され、明治31(1898)年、東京で28年の短い生涯を閉じた。 ドイツ留学を前にしての、無念の最期だった、という。
井上眼科病院と復明館眼科医院の関係を示すものというのは、以上の記述だが、明治28(1895)年と言えば、復明館では丸尾興堂の時代で、その頃から井上達也と丸尾興堂の付き合いがあったのだろう。 井上達也が48歳で急逝していたことは、丸尾晉が47歳で死んだ時、井上達二には深く同情するものがあったのではないかと思われた。
セコメントをする