戦後日本の再建に果した役割と人柄
2021-12-31


         (4)戦後日本の再建に果した役割

          大蔵大臣として財閥解体などにかかわる

 昭和17年3月、渋沢敬三は第一銀行副頭取から日銀副総裁に就任する。 敬三の母敦子は、「第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、栄一が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことは、単なる親の七光りではない、これで自分も冥土へ行って、夫や栄一にあわす顔がある」と、声を出して泣いて喜んだという。

 19年春に日銀総裁、終戦直後の幣原内閣では大蔵大臣になった。 大蔵大臣としての渋沢は、インフレーションの収束に奔走することになり、新円切り換え、預金封鎖、財産税・戦時利得税の創設、財閥解体などにかかわった。 インフレそのものは容易に収まらなかったけれど、財政破綻の危機はまぬがれ、国民を飢餓から救うことはできた。

 武見太郎著『戦前・戦中・戦後』(講談社)につぎのような記述がある。 「この人はただの華族のお坊っちゃまではなくて、本当に経済学者としてもりっぱな見識を持っていたし、科学者としてもすばらしいものを持っていたのであって、私は戦後の日本のあり方を決めるうえにおいて、渋沢さんが政治家として果された役割がよほど大きかったことが、あまり世間では知られていないように思う。 財閥解体ということがGHQの命令として決められたときに、渋沢さんは渋沢財閥を率先して解体している。 そして、これに対して徹底的に闘った三菱財閥の岩崎さんを自ら訪ねて、自分でもこうやった、もう負けた以上はだめなんだ、といって岩崎さんを説得し、財閥解体に応じてもらって、その勢いで全部の日本の財閥がGHQのいうことをきいたという話を、私は吉田(茂)さんから聞いた。 吉田さんはその意味で、渋沢さんを高く買っていた。 もし渋沢さんが大蔵大臣の現職にあり財閥の巨頭であって、それがいうことをきかなければ、日本の財閥解体はうまくいかなかったと思われる。 それがスムーズにいったというのが、じつにこれは渋沢さん一人の力であるといってもよかった、ということを吉田さんは述懐していた」

            戦争で失われた十年

 追放令に該当し、すべての公職を離れた渋沢は、その大きな屋敷を財産税で物納し、崖下の執事の住んでいた家にさっさと越してしまう。 金銭にはまったくあっさりしていて、「ニコボツ」(にこにこしながら没落する)といって、平気な顔をしていたという。

しかし、このために学問活動の規模は、戦前とは、比較にならぬほど縮小せざるを得なかった。 長男雅英はこう書いている。

 「私はもし昭和12,3年ごろのような父を中心とした共同研究が、たとえ十年でもつづいていたら、日本のために、父のために、また多くの研究者の方がたのためにどんなによかったかと、心から残念に思っている。 戦争があのような無茶なプロセスをとらなかったら、また日本人の心の状態があそこまで追い込まれることがなかったら、父の人生も、その学問も、もっと大きく豊かな花を咲かせただろうと思う」

            (5)人柄うかぶエピソード

 渋沢敬三の人柄を物語るエピソードを、いくつか紹介しておこう。

 佐島敬愛という人が渋沢の思い出を書いた中に「先生は、ある意味では帝王学的な教育を若い時から受けられていた。 それだけに物ごとの考え方が常に、広い基盤で考えられていたようであり、ことの正否を見る時に、ある意味からいったら理解を超越したような決定をされる場合がひじょうに多かった。 たとえば、ナポリに行った時、ナポリに魚の世界的な研究所があるが、それに先生は私費で、ちゃんとお金を出しておいて、日本の学者があそこへ行って勉強できるような穴をつくったりした。 気をくばるというのじゃなしに、自然にそういう考え方が出てくる」という話がある。


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