恋愛歌「小鳥ならば」が、唱歌「夜汽車」に
2022-10-01


9月16日に発信した、のすたるぢや、萩原朔太郎<等々力短信 第1159号 2022(令和4).9.25.>で、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIの「萩原朔太郎」から、「旅上」、「ふらんすへ行きたしと思へども」の後半を引用した。 前半は、よく知られた、

 ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん。

 なのだが、後半は、こうだった。

 汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて/われひとりうれしきことをおもはむ/五月の朝のしののめ/うら若草のもえいづる心まかせに。

それを読んで、いつも「等々力短信」に長文の手紙を下さるSさんが、「これは新幹線では味わえぬ夜汽車の旅情ではないでしょうか」と、「のすたるぢや」にもかけて、唱歌の「夜汽車」が好きだったと、書いてくださった。 小学校3年生の時、先生によくお願いして、教室で弾いてもらったと、勝承夫(かつ よしお)の訳詩も添えられていた。

私は唱歌の「夜汽車」を知らなかったので、ネットで検索すると、YouTubeでいくつか歌を聴けた。 面白いことがわかった。 「訳詩」とあったが、元はドイツ民謡の「小鳥ならば」という恋愛歌で、ヨハン・フリードリヒ・ライヒの民謡集にある原詩は、日本語に訳すと、こういうものだという。

  もしも私が小鳥ならば
  そして二つの翼があれば、
  あなたの処へ飛んで行く。
  でもそれはできない、
  ここにひとりで残る。

 1950(昭和25)年頃、この曲に勝承夫がつけた日本語の詩は、まったく違う「夜汽車」の情景になった。

   いつもいつも
   通る夜汽車
   静かな
   響き聞けば
   遠い町を 思い出す

   闇の中に
   続く明かり
   夜汽車の
   窓の明かり
   はるかはるか 消えていく
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