出版の自由、地方分権、交詢社
2023-05-31


川崎勝さん「明治八年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が出る。その時にまともにその批判をしているのは「郵便報知」だけで、小幡の署名で、明らかに讒謗律に対する批判として記事が出されます。ほとんど注目されていませんが、これも小幡の功績です。結局、小幡は出版の自由を強調することの意味を他の誰よりも意識していたのではないか。その結果、福沢がいろいろな著作を出していく中で、福沢を守っていくことになったのではないか。だから、文明の先達者というと福沢のイメージがありますが、そういう基本的なことのリーダーシップを取った人物だと私は小幡を評価したいと思います。トクヴィルは自由民権運動が起こってから騒がれるわけだけど、その時よりも『上木自由之論』(明治六年)のほうがインパクトはあったわけで、津田(真道)の『泰西国法論』とミルの『自由論』が植木枝盛などに影響を与えて自由民権運動に行く。その思想的根拠を与えたものの一つが『上木自由之論』であったと見ているんです。」

 大久保健晴さん「出版の自由を取り締まっていくと専制に至るという、政治哲学的にも重要なトクヴィルの議論が、この時期に翻訳にされたことは、明治思想史上においてもきわめて大きな意義があります。」(馬場註・どこかの国の大統領や首席に読ませたい。)

西澤直子さん「福沢の場合、早くに江戸に出てきており、福沢の周りの中津藩の人たちは、実際に版籍奉還から廃藩置県までの混乱を収拾しなければならない立場にはなかった。福沢は小幡が訳したりまとめたものを見て「そういうことも問題なのだ」と思い、自分の著作にそれを取り入れるという構造があるのではないかと思います。そこを明らかにしないと福沢の実績もわからないし、明治の変革期の実際に行政にいた人たちが何を考え、どう新しい社会をつくっていったのか、というところも見えなくなってしまうかと思うのです。」

川崎勝さん「(明治十三年にできた)交詢社は、最初の一、二年は官僚から政治家、思想家など、あらゆる層の人たちが入っている。それから地域も非常に多岐にわたり、慶應出身者が中心につくった団体だけど、(小幡は)政府に対抗する一つの言論機関として位置付けていたのではないかと見ています。ただ、明治十四年政変以前は、福沢としては言ってみれば、旧体制側ではない政治家たちを含んだ一つの言論機関をつくっていきたいと思っていた。それは福沢がずっと『西洋事情』以降唱えてきた、文明化の象徴としての議論を中心に置いた存在として位置付けるということです。小幡がどう動いたかははっきりとは見えないのですが、とにかく小幡を軸にして、荘田平五郎、矢野文雄、馬場辰猪らのメンバーが議論をしながら交詢社をつくり上げていった。外部から見た場合、やはりいくら違うといっても、一つの政治「的」団体とみなされてしまうのは当然の成り行きだと思う。」

大久保健晴さん「福沢はギゾー、バックルの文明史、文明論に関心があったのに対し、小幡はむしろミルやトクヴィル、つまりは言論の自由や地方自治などに関心を向けた、ということになるでしょうか。」

西澤直子さん「小幡は継続して地方自治に関心を持っていて、しかも福沢より政治的な関心、政治体制に対する関心は強かったのではないかと思います。だから、交詢社も一つの政党だと捉えられてもいいと考え、私擬憲法案を出していったのではないか。一方で、交詢社の仲間を紹介しあったり、情報交換のネットワークの核に小幡がなっています。小幡にとって交詢社は一つの世務諮詢、世の中の情報を交換し合う機関でもあった。特に中央と地方の情報量の差をなくそうという気持ちが強かったのではないか。やはり政治のあり方を考えた時に、都会でも地方でも、同じ情報量を持つことが重要であると思ったのだと思います。」

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